【太政官制】『律令』から見る朝廷の仕組み 第1回 神祇官【日本古代史】
はじめに
現代の日本では、日本の国政を担う政府機関にいわゆる官僚や国家公務員たちが勤めています。
日本古代における日本でも、朝廷には「官人」と呼ばれる人たちが天皇の身の回りの給仕から国政の事務に至るまで幅広い実務を行うために仕えていました。
今回はそんな奈良時代の官人の勤務にフォーカスして、朝廷がどのような組織で構成され、どんな仕事をしていたのか、『養老律令』を読みながら見ていきたいと思います。
全部で12回に分けて、古代朝廷の太政官制
の解説をしていきたいと思います。
今回は第1回目として神祇官を扱います。
古代日本の朝廷の構造
古代日本の政治制度は二官八省一台五衛府と呼ばれ、神祇官と太政官の二官、中務省、式部省、兵部省などの八省、弾正台の一台、左右兵衛府などの五衛府から成っていました。
それぞれの定員や職務内容については、『養老律令』の職員令に規定があります。
ちなみに、律令は音読みを呉音で読むため、「職員令」は「しきいんりょう」と読みます。これを、漢音で「しょくいんれい」と読むと、唐で施行されていた律令の職員令のことを指します。
また、『大宝律令』では職員令は官員令と呼ばれていました。
官人たちは、この規定に基づいて多様な役職に任命され、それぞれの仕事を内裏で行っていました。
職員令1 神祇官条に見える神祇官の概要
神祇官の職務や定員については、『養老令』職員令1の神祇官条に規定があります。
神祇官条 本文
神祇官
伯一人。掌、神祇祭祀、祝部神戸名籍、大嘗、鎮魂、御巫、卜兆、惣判官事。余長官判事准此。大副一人。掌同伯。余次官不注職掌者、掌同長官。少副一人。掌同大副。大祐一人。掌、糺判官内、審署文案、勾稽失、知宿直。余判官准此。少祐一人。掌同大祐。大史一人。掌、受事上抄、勘署文案、検出稽失、読申公文。余主典准此。少史一人。掌同大史。神部卅人。卜部廿人。使部卅人。直丁二人。
神祇官条 書き下し
神祇官
伯一人。掌らむこと、神祇の祭祀、祝部・神戸の名籍、大嘗、鎮魂、御巫、卜に兆みむこと、官の事を惣べ判らむこと。余の長官事判らむこと、此に准へよ。大副一人。掌らむこと伯に同じ。余の次官職掌注さざるは、掌らむこと長官に同じ。少副一人。掌らむこと大副に同じ。大祐一人。掌らむこと、官内を糺し判らむこと、文案を審署し、稽失を勾へ、宿直を知らむこと。余の判官此に准へよ。少祐一人。掌らむこと大祐に同じ。大史一人。掌らむこと、事を受りて上抄せむこと、文案を勘署し、稽失を検へ出し、公文読み申さむこと。余の主典此に准へよ。少史一人。掌らむこと大史に同じ。神部卅人。卜部廿人。使部卅人。直丁二人。
神祇官の定員
まず神祇官の定員は、四等官では長官の伯が一人、次官の副が大副、少副それぞれ一人、判官の大祐、少祐それぞれ一人、主典の大史、少史それぞれ一人となっています。
その他に、神事全般を行う神部30人、太占などの占いを行う卜部20人、雑用係の使部30人と直丁2人が定員として規定されています。
「部」というのは、世襲で様々な専門的な職務を担当する集団のことを指します。
直丁は全国から貢上された仕丁が当てられます。
神祇官の職掌
1、伯、大副、少副
まず、伯の職掌は「神祇の祭祀、祝部・神戸の名籍、大嘗、鎮魂、御巫、卜に兆みむこと、官の事を惣べ判らむこと」とあります。
「神祇の祭祀」とは、天の神様である天神と、地上の神様である地祇を祀ることです。それらの祭祀は公的祭祀の祈年祭や神嘗祭などで、他にも季節ごとの祭りが神祇令に規定されています。
「祝部・神戸の名籍」とは、全国の官社に所属する民である神戸の戸籍と神戸から選ばれる下級神職である祝部の名帳を管理することを指します。
「大嘗、鎮魂」とは、神祇令に規定がある祭祀の一種で、大嘗祭は天皇が即位後に初めて行う新嘗祭を、鎮魂祭は天皇の魂が体から離れないようにするための祭りを指します。
神祇官条にこれら二祭が特記された理由を『令義解』では、それらが祭祀の中で最も重要なものであったからであるとしています。
「御巫、卜に兆みむこと」は、解釈が分かれますが、今回参考にした日本思想大系の『律令』では巫女である御巫が天皇や中宮の息災を祈ることと神託を告げることを、伯(長官)が監督することであると解釈しているようです。
「官の事を惣べ判らむこと」とは、官(神祇官)の諸事を決裁することを指しています。
大副の職掌は、「掌らむこと伯に同じ」とあり、少副も「掌らむこと大副に同じ」とあり、神祇官では次官の大副・少副の職掌は長官の伯と同じであるとしています。
2、大祐、少祐
大祐の職掌は、「官内を糺し判らむこと、文案を審署し、稽失を勾へ、宿直を知らむこと」とあります。
「官内を糺し判らむこと」とは、官内における非違を糾弾し、その決裁に関与することを指します。
「文案を審署」とは、主典が作成した文書の草案を審査して署名することを指します。
「稽失を勾へ、宿直を知らむこと」とは、主典が検出した公務の遅れや文書の誤りを判断し、宿直の割り当てを把握することを指します。
「稽」の字には「留まる」という意味があり、「失」には「見逃す」「間違える」という意味があり、上のような解釈になります。
少祐の職掌は「掌らむこと大祐に同じ」とあり、大判官である大祐と同じであるとしています。
3、大史、少史
大史の職掌は、「掌らむこと、事を受りて上抄せむこと、文案を勘署し、稽失を検へ出し、公文読み申さむこと」とあります。
「事を受りて上抄せむこと」とは、授受した文書を記録することを指します。
「文案を勘署し」とは、文書の草案を考慮、作成し、署名することを指します。
「稽失を検へ出し」とは大祐の部分で述べた、「稽失」、公務の遅れと文書の誤りを検出することを指します。
主典である大史は遅れや誤りは指摘するだけで、判断は判官の大祐が行います。
「公文読み申さむこと」とは、公文書を音読し、申すことを指します。
八世紀ごろの日本では、主典が長官の決裁を仰ぐために、文書自体でやり取りするのではなく、文書を読み上げて、口頭で決裁を行うという「読申公文」という方式がとられていました。
後には、この方式に代わって「申文刺文」という、文刺という棒の先に文書を挟んで長官に渡し、長官は黙読して決裁を行うという方法が主流となっていきます。
少史の職掌は「掌らむこと大史に同じ」とあり、大主典の大史と同じであるとしています。
おわりに
以上が『養老令』職員令に規定される神祇官の職掌の概要になります。律令の研究は律令自体が現存していないため、注釈書である『令義解』や『令集解』から本文を復元し、それらの注釈に基づいて行われています。
その為、字義や文意の解釈が研究者によって分かれることが多々あります。
今回の記事は、日本思想大系『律令』を主要参考文献として、筆者が妥当と考える解釈を記したものに他なりません。
ぜひ、ここに書いてあることは参考までにし、これを元にご自身で調べて、より妥当な解釈をご自身なりに見つけていただけたらと思います。
では、次回第二回は太政官の職掌についてみていきたいと思います。
質問や記事のリクエストがありましたらコメントにてお願いします。
《参考文献》
吉川真司「申文刺文考 太政官政務体系の再編成について」『日本史研究』382号 日本史研究会 1994年
和歌の始まりと「万葉集」
はじめに
「万葉集」、「古今和歌集」、百人一首などなど和歌に関するこれらの言葉は誰もが一度は聞いたことがあると思います。それほどまでに和歌は日本に古くから根差し、脈々と受け継がれてきた文化の一つといえます。
今回はそんな日本史には欠かせない要素「和歌」の始まりと最初の国家的和歌集の「万葉集」について触れていきたいと思います。
ところで和歌とは?
和歌というとまず最初に5・7・5・7・7の定型歌が思い浮かぶとと思います。しかし、古代、特に飛鳥時代から奈良時代にかけてはそれ以外の形も存在していました。それは、長歌、片歌、旋頭歌と呼ばれるものです。正式には、この三つに、短歌を加えたものを広く「和歌」と呼びます。しかし、時代が下るにつれて長歌や旋頭歌などは詠まれなくなり、短歌のみが広く詠まれたために「和歌」というと短歌形式の歌を指すようになりました。
和歌の始まり
和歌の始まりは定かではありません。現在最も古いとされてる和歌は、『万葉集』にみられる第三十四代舒明天皇の歌です。『万葉集』の巻頭には第二十一代雄略天皇の歌とされる五七調の歌が記されていますが、時代的な隔たりが大きく、天皇の実作ではなく伝承であろうとされています。
和歌の起源について『古今和歌集』の仮名序で、紀貫之は「天地開闢の時」としています。ここでいう「天地開闢の時」とは、イザナギとイザナミが国生みを行った時を指します。また、仮名序の中で、言い伝えによる和歌の起源は、天上を下照姫の歌、地上を須佐之男命の歌であるとしています。須佐之男命の歌とは『古事記』の中で、クシナダヒメに贈った「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を」という歌です。どちらにせよ、10世紀ごろの人々は和歌に起源を神話に求めていたようです。
この仮名序が書かれて以降、上に挙げたスサノオノミコトの歌が和歌の起源であると信じられ、「八雲立つ」、「八雲」という言葉が和歌の代名詞として使われることもありました。
万葉集の成立
『万葉集』は誰もがご存じ、「令和」の出典ともなった日本最古の歌集です。成立年は定かではありませんが、760年ごろではないかとされています。収録されている歌数は4540首、全部で20巻に収められています。しかし、すべてを一人の人が編纂したわけではなく、数巻ごとに別々の人が編纂したといわれています。『万葉集』は入集している歌の年代で4期に分けられます。では、Ⅰ期から順番にみていきましょう。
Ⅰ期 672年壬申の乱まで
古い時代から壬申の乱までの歌はⅠ期に分類されます。ここでの大きな特徴は、口伝えの伝承や歌謡など、口誦性が強く、まだ記載文学としての和歌ではなかったという点です。先ほど述べた雄略天皇の作とされる歌謡もその一つです。朝廷という集団の中で天皇のために詠んだ歌や、天皇が国家のために詠んだ歌など集団性が強いのも特徴の一つです。その代表例として、国見の歌というのがあります。これは、国家元首が高い山に登り、国を見渡し、国家の安寧を祈るという儀式のようなものを詠んだ歌です。
大和には 群山ありと とり鎧ふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は(舒明天皇『万葉集 巻一』)
上に挙げたのは舒明天皇の国見の歌です。香具山は天から降りてきたともいわれ、当時の人々にとって神聖な山でした。天皇はそこに登って周りを見渡しています。すると、人民の家から煙が立ち上り、海には生命力があふれている様子が見える。麗しい国、大和の国よ。というような様子を詠んでいます。しかし、煙が立ち上る様子と海は実際に見えるものではなく、天皇の統治する国において見えるべきものとして表現されています。
このように、初期の和歌は個人の情を詠むのではなく、儀礼の一環として、言葉を呪術的な意味を持つものとして詠まれました。Ⅰ期の特徴はざっくりとこんな感じです。
Ⅱ期 天武朝から710年平城京遷都まで
つづいて、Ⅱ期は壬申の乱後の天武天皇の時代から、平城京への遷都までの歌です。ここでの特徴は、和歌が記載文学に転換し、個別性を持ち始めたことです。言うなればそれまでの歌は、完成している歌を文字に起こして記録したものであったが、記載文学に転換したのちは文字と歌の制作とが結びつき、文字ありきで歌が作られれるようになりました。
ここで気を付けていただきたいのが、文字がこの段階からはじめて使われるようになったのではないことです。それまで、主に漢文や文章の記録のための文字使用が、和歌の世界に流入してきたのであって、稲荷山古墳出土鉄剣銘にも見られるように、文字の使用は古くから始まっていました。
さて、文字ありきで詠まれるということは、情景から離れて心情を詠むということが可能になります。
ますらをの 現し心も 我はなし 夜昼いとはず 恋ひしわたれば(人麻呂『万葉集 巻十一』)
上に挙げたのは、Ⅱ期の代表歌人柿本人麻呂の歌です。ここで見てわかるのは、恋心を歌っている歌ではありますが、情景描写が存在していません。情景に仮託することなくストレートに心情を言葉にしているとも言えます。このように、文字ありきでの和歌制作は、言葉中心の表現を可能にしました。
Ⅲ期 710年から733年まで
Ⅲ期は、遷都後から山上憶良の没年である733年までです。ここでは、さらに個別性が高まり、漢詩文による影響も大きく受けるようになりました。その為、歌人という存在が独立して現れるようになります。
若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
上に挙げたのはⅢ期の代表歌人、山部赤人の歌です。若の浦に潮が満ちてくると干潟がなくなってしまうので、他の葦辺を目指して鶴が鳴き、飛び渡っていくという歌です。赤人は自然描写を得意としました。ここでは自然を客観的な視点からとらえています。舒明天皇の国見の歌のように自然描写を神性として用いるのではなく、ストレートに自然そのものを詠んでいます。このように、個別性が高まったことで、歌人による歌風が確立されたのも大きな特徴です。
Ⅳ期 733年から759年まで
Ⅳ期は大伴家持の時代です。この頃から和歌が知的で観念的なものとなり、理論を重んずる後の和歌の原型のような形となりました。その背景には、家持自身が唐における役人の教養としての漢詩を学んでいたことも大きいかと思います。
春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ 嬬
我が園の 李の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りたるかも
上に挙げた二首の歌は家持の作で、唐の故事に基づいて詠まれた歌の一つです。
「桃李言わざれども下自ずから溪を成す」という『史記』の言葉を元にしています。桃やスモモは何も言わないけれども花や実を慕って人々が集まり、木の下に自ずと道ができることから、徳望のある人のもとには何も言わずとも自然と人が集まるという意味の言葉です。
上の歌では、桃の花の下、月に照らされる道というのがこの故事にある自ずとできた道であるようです。このように、Ⅳ期には役人の教養として詠む和歌という側面が家持によって生み出されました。
『万葉集』以降
『万葉集』編纂後、しばらくして平安京遷都が行われたころから、文章経国思想が高まってきました。これは、漢詩、漢文を学ぶことで国を安定させることができるという思想で、この影響で嵯峨天皇や、淳和天皇のころには漢詩集が盛んに作られました。
一方で、和歌は衰退し、国家的な公式なものではなくプライベートな存在となりました。その後、仁明天皇のころから天皇の周辺で和歌が詠まれるようになり、そのひ孫の醍醐天皇に時代になると『古今和歌集』が編まれました。
これ以降、和歌が貴族たちの間に浸透していき、和歌文化が栄えていくこととなります。
古今和歌集についてはまたの機会にお話ししたいと思います。
律令国家を目指して1 大化の改新
そもそも律令とは?
律令とは簡単に言うと「法」のことです。
隋、唐で施行されていたものを手本として、日本も導入を目指しました。「律」というのは課税や兵役などの国民への命令、一般行政についての規定で、「令」というのは罪を犯した人への罰則についての規定です。
中国では、古代の日本はこの律令を国家の基本法として政治を行いました。
また、少し時代が下ると、変わりゆく時代に律令も順応させていかなければならず、律令に追加する形で「格式」というものが制定されました。これについてはまたあとでご説明します。
ともあれ、古代の日本ではこの律令を最大の目標として政策が行われたわけです。
今回と次回にわたって日本が律令国家になっていく初期の段階について解説していこうと思います。
大化の改新
大化の改新とは蘇我入鹿の暗殺事件のみを指すのではなく、蘇我入鹿暗殺に始まる大規模な政治改革を指します。
よって、その段階は蘇我入鹿暗殺のステップⅠと蘇我氏亡き後の政権での政治改革のステップⅡに分けられます。
これをまとめて、645年に制定された日本最初の元号である「大化」にちなんで、「大化の改新」といいます。
蘇我氏の強大化
7世紀ごろの日本では、政権の中心には蘇我氏の存在があり、蘇我氏は自らの一族への権力の集中化を図っていました。
そして、643年には蘇我入鹿が聖徳太子の息子である山背大兄王を滅ぼし、更なる権力の一点集中化を図りました。
山背大兄王は皇位継承候補でもあり、もしも皇位に就いた場合に聖徳太子の家が権力を持つのを恐れたためであると言われています。
ちなみに山背大兄王は入鹿のいとこにあたります。
蘇我入鹿暗殺計画
このようなことがあり、中大兄皇子は、蘇我氏の権力が強まることに危機感を感じていました。
時を同じくして、祭祀をつかさどっていた豪族である中臣鎌足も蘇我氏の力が天皇家をしのぎつつあることに危機感を感じ、蘇我氏を滅ぼすことを考えていました。
そんな中、法興寺で開催されていた蹴鞠の会で二人は出会うことになります。
蹴鞠中に中大兄皇子が飛ばしてしまった靴を、そこに居合わせた中臣鎌足が拾ってあげたことで仲良くなり、意気投合し、密談を重ね、蘇我氏を討つことを決めたと言われています。(少女漫画のような展開ですが…。)
そして来たる645年、その時は訪れます。
日取りは、蘇我氏、皇族が一堂に会する、三韓(新羅、百済、高句麗)からの使者が朝廷にやってくる日を狙い、蘇我入鹿を暗殺しました。これを645年の干支にちなんで「乙巳の変」と言います。
乙巳の変後の朝廷人事
その後、いわば蘇我氏の傀儡であった女帝の皇極天皇は譲位し、軽皇子が即位して孝徳天皇になりました。
それに伴って、都を飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)から難波宮へ移しました。
ちなみに乙巳の変の現場はこの飛鳥板蓋宮の本殿であったと言われています。
前にも書いたように、飛鳥は蘇我氏の本拠地でありました。
つまり、蘇我氏の本拠地であった飛鳥から移動することで政権をやり直すという意味があったと考えられます。
暗殺を手伝った蘇我倉山田石川麻呂は右大臣に、同じく変の中心首謀者であった中臣鎌足は内臣に、孝徳天皇の后の父である阿部内麻呂は左大臣に抜擢され大化の改新を推進しました。
また、遣隋使とともに隋に渡った経験のあった旻と高向玄理は中国風の法を整備するための政治顧問として国博士に任命されました。
大化改新の詔
646年1月、今後進める政治の方針が明文化さされ示されました。
それを「大化改新の詔」と言います。
主な内容としては、田荘、部曲の廃止、新しい行政区画の制定、戸籍、計帳、班田収授法の作成、新しい統一税制の制定などがあります。
田荘、部曲の廃止は、豪族の土地と人民の私有化を禁ずることで公地公民制を達成し、すべての土地と人民を公、つまり朝廷のものととすることを目指しました。
新行政区画は、現在の都道府県のようなもので、当時は地方に「評(こおり)」と呼ばれる組織が置かれました。
戸籍、計帳というのは班田収授と課税のための人民の把握を目的として作られました。
こうした背景には、朝鮮半島や中国での戦争があり、日本は天皇を中心とする中央集権国家を作ることを迫られたからであったと言えます。
大化の改新のその後
このようにして大胆な政治改革を成し遂げた中大兄皇子でしたが、変後は蘇我氏系の人々を次々に滅ぼし、天皇家への中央集権化を図りました。
まずは皇位継承候補であった古人大兄王を滅ぼしました。
次に、変の功労者でもあり右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂をも滅ぼしてしまいました。
(いつかの日の蘇我入鹿のような行いですね。)
天皇家への中央集権化を達成し、権力を強化するためには危険分子である蘇我氏系の人々や政敵は滅ぼさざるを得なかったようです。
今回は短めですが、限がいいのでこの辺にしておきたいと思います。次回は斉明天皇の即位から持統天皇の治世までを解説したいと思います。
異文化がもたらした飛鳥文化
なぜ飛鳥?
その名の通り、飛鳥時代は現在の奈良県明日香村周辺の「飛鳥」と呼ばれる地域を中心に仏教をの影響を受けた文化が栄えました。
どうして数ある土地の中から飛鳥が都になったかについては諸説はありますが、蘇我氏の本拠地があったことと関係しているといわれています。
推古天皇が即位したころは、ヤマト政権の政治形態から律令に基づく朝廷の政治形態への過渡期でした。
そのため、ヤマト政権に見られるような大王と有力豪族の連合政権的性格が強く、大王とそれを支持する豪族はにこいちで活動していました。
ゆえに、推古天皇を支持する蘇我氏の本拠地である飛鳥に天皇の宮が置かれたといわれています。そこに様々な施設や人々がくっついて都を形成していきました。
飛鳥文化の特徴
1.氏寺をはじめとする仏教寺院
飛鳥文化の担い手となったのは天皇や豪族などの権力のある人たちでした。その代表的な例が、古墳に代わって氏寺を建てるようになったことです。
それまで古墳の大きさが権威の象徴でしたが、当時の最先端の仏教寺院を建てることが権威の象徴へと変わったのです。
主な氏寺は、蘇我氏の飛鳥寺や舒明天皇の百済大寺、厩戸王の四天王寺、法隆寺などがあります。
また、氏寺の建築様式はそれまでとは異なりました。
それまでは竪穴式住居や高床式倉庫のように地面に柱を突き刺して建てる掘立柱建物がメインでした。
しかし氏寺は礎石というのを用いて建立されました。これは地面に柱を突き刺すのではなく、地中に埋めた礎石という石の上に直接柱を立てる方法です。大陸から伝わりました。
ただ、がっちり地面と固定するのではなく石の凹凸に合わせて木を削って上に乗っけるだけでした。もろく見えますが屋根には瓦を使うので重さである程度固定され、地震の際には揺れることで倒れないつくりになっています。
2.二つの様式の仏像
氏寺が建立されたということは、安置する仏像が必要になります。というわけで、仏像の製造も盛んになりました。
この頃の仏像には北魏様と南梁様の2つの様式がありました。どちらも中国から伝播しました。
北魏様の特徴は、杏仁形(あんにんぎょう)の目と仰月形(ぎょうげっけい)の口です。
杏仁形の目とは上下同じような弧で表現された目のことです。
仰月形の口とは三日月を逆さにしたような形の口で、口角が上がっています。
このため北魏様の仏像は力強いような端正な顔立ちをしています。クールな印象です。下の絵のような感じです。(字が汚いのはスルーで。)ぜひ資料集などで見てみてください。
北魏様の仏像を作った仏師で有名なのが鞍作鳥(くらつくりのとり)です。止利仏師とも呼ばれます。彼は渡来系の人で下の絵で紹介している釈迦三尊像を作りました。
南梁様はこれと対照的に柔らかく丸みのある感じです。服も流れるように緩やかな表現であらわされています。
代表的なのは弥勒菩薩半跏思惟像です。北魏様に比べて柔らかく女性的な表情をしています。ちなみに仏には性別はないそうです。
この2つの様式ともに、口角の上がったにこやかな表情をしています。
この表情をアルカイックスマイルといいます。日本語では古拙(こせつ)の微笑(えみ)というそうです。
アルカイックスマイルはギリシャのアルカイック美術に見られる技法で幸福感を表すといわれています。しかし、これらの仏像のそれとは関連がないとされています。
これは想像ですが、すべてを包み込み、幸福感を与えるような仏のおおらかな表情を追求した結果、自ずとやんわりとした微笑になったのではないでしょうか。人類共通の感覚というやつでしょうか。
3.中国と朝鮮の影響
飛鳥文化の最たる特徴は、中国の文化、朝鮮の文化の影響をダイレクトに受けていることです。他にもシルクロード由来で中国に伝わったギリシャ建築の様式も法隆寺に見られたりします。(そう考えるとアルカイックスマイルとの関連もありそうな気もします。)
朝鮮からは2人の僧がある重要なものを日本に持ってきてくれました。
1人は百済の観勒(かんろく)という僧です。彼は暦法を持ってきてくれました。
もう1人は高句麗の曇徴(どんちょう)という僧です。彼は絵の具、紙、墨のつくり方を伝えてくれました。これにより、日本の大陸文化の共有も進んでいきました。
その他、ササン朝ペルシャの工芸品に見られる獅子狩文様という絵柄が法隆寺の四騎獅子狩文様錦という布の作品にみられたり、忍冬唐草文様というギリシャで用いられた植物の模様が中国、朝鮮を経て、多少の変更が加えられて法隆寺の装飾にみられたりします。
その他の代表的な作品
上に挙げたほかに有名な作品を紹介したいと思います。
まず、言うまでもなくみんな知っているであろう玉虫厨子です。
その名の通りタマムシの羽が装飾に使われているためこう呼ばれています。タマムシは虹色に輝くきれいな羽を持つ昆虫で、東南アジアのどこかの国では今でもアクセサリーなどに使われているようです。
厨子というのは仏像を納めて安置する、仏像の家のようなものです。(仏教版シルバニアファミリーみたいなもんです。)
厨子の側面には「捨身飼虎図」というのが描かれています。
これは釈迦が前世に王子であったときに、森で飢えに苦しむ虎の親子を見て自身の身を虎に与えて救ったという伝説に基づいた作品です。
ぜひ写真を資料集などでご覧ください。
つづいて、天寿国繍帳というものです。
これは聖徳太子の死後に、妃であった橘大郎女(たちばなのいらつめ)という人が発案して作られたタペストリーのようなものです。
日本最古の刺繍ともいわれています。
天寿国というのは天国のことで、聖徳太子が亡くなったのちに、橘大郎女が聖徳太子の逝ったとされる天寿国を見たいということで、絵をかかせ、それを刺繍させて作られました。
作品の中には聖徳太子の「世間虚仮 唯仏是真」という言葉が刺繍されています。これは世の中は仮の世で、仏だけがまことのものであるという意味で、仏教の教えに基づいた政策を行っていた聖徳太子らしい言葉だといえます。
これもぜひ、資料集などでご覧ください。
今回は飛鳥文化の解説でしたが、大変申し訳ないことに作品の画像が著作権の関係で掲載することができませんでした。おそらく今後の記事も画像を載せるのは困難なので随時イラストなどで紹介したいと思います。
文化史は目で見て楽しみ、理解するものです。ぜひ画像検索や資料集、博物館のサイトなどを活用して、作品をご自分の目でご覧いただきたいと思います。
ヤマト政権から飛鳥の朝廷へ
朝鮮半島と隋の国
前回の記事で書いたように朝鮮半島では新羅の力が増して、周辺の百済、伽耶諸国に支配を広げていきました。この背景には北方に位置している高句麗が南下し、新羅が圧迫されていたことがあげられます。
当時、百済、新羅は独立した一国であるのに対して、伽耶諸国は依然として小国の連合であったと言われています。前期は金官国(金海)を中心とし、後期は大伽耶国(高霊)を中心としていたようです。
中国は当時南北朝時代で、南北に国が分かれていました。その後589年に楊堅という人が統一し、隋が誕生しました。隋が力を持ち、高句麗などに進出するようになると、上に書いたように連鎖的に百済や新羅なども圧迫されるようになりました。
大友氏と物部氏と蘇我氏
大友氏、現る
6世紀初めごろから、大友氏、物部氏、蘇我氏の3つの氏が政権の中枢におり、対立もありました。時系列を追ってみていきたいと思います。
まず、507年に大伴金村という人が男大迹尊という人を越前から連れてきて、天皇として擁立しました。それが継体天皇です。
継体天皇の前の武烈天皇という人に後継ぎがいなかったために、天皇家と血縁関係がある人を探し出し、少し遠くの越前から連れてきたと言われています。
これも諸説ありますが、武烈天皇の素行に関する記述に、妊婦の腹を切ったり、爪をはがした人にイモを掘らせたりと邪知暴虐な行いがあるようです。これについて史学的に王朝交代時において前王朝は悪く書かれることが多いことから、一説には継体天皇から王朝が交代したともいわれています。
その後、512年に金村は百済に伽耶諸国の支配を認めました。このことがのちに責められ大友氏は失脚することになります。以降大友氏は長期にわたって没落気味になってしまいました。
そして527年に磐井の乱がおこりました。
仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の対立
538年には百済の聖明王が欽明天皇に仏像や仏典を贈りました。これが仏教の公伝と言われています。
新しい宗教が来ると、信仰するか否かで対立が起こりました。その中心となったのが崇仏派(仏教推進派)の蘇我氏と、廃仏派(仏教反対派)の物部氏でした。
お互いの主張はこうです。
まず蘇我氏は、先進的な海外の文化を積極的に取り入れて、世界に遅れないようにしようということで仏教を推進しました。
物部氏の方は、日本には古来より八百万の神様がいるという伝統的な信仰があり、それを守り続けるべきだということで仏教の受容に反対しました。
540年ごろは蘇我氏の氏上の蘇我稲目と物部氏の氏上の物部尾輿が対立し、最終的に天皇と結びつきの大きかった稲目の勝利に終わりました。
その後、二人の息子である蘇我馬子と物部守屋が再び大きく対立し、587年に馬子が物部氏を滅ぼし、勝利したことでこの対立は終結しました。
力を伸ばす蘇我氏
物部氏が滅んだことで一強となった蘇我氏は力を伸ばしていきました。
592年に欽明天皇の息子で当時即位していた崇峻天皇が暗殺されてしまいました。
犯人は蘇我馬子です。当時政権の中心にいて実権を握っていた蘇我氏に対する崇峻天皇のある発言がきっかけで、馬子は天皇に嫌われており殺されるかもしれないと思うようになり配下の者に暗殺を命じたといわれています。
これ以降、蘇我氏はさらに権力を強めていきました。
推古天皇の時代
その後、崇峻天皇の2つ前の天皇の敏達天皇の后で、崇峻天皇の姉である推古天皇が即位しました。彼女は日本初の女帝です。古代は女帝が即位することが多々ありました。
彼女自身、先進的なものを取り入れることに抵抗はなく、蘇我氏のマインドと相性が良かったようです。そして、甥の厩戸王(聖徳太子)たちの協力を得て政治を行っていきました。
聖徳太子の二大法令
603年には超有名なあの冠位十二階が定められました。
これは、それまで氏単位で職掌が分けられ、氏のまとまりで構成されていた中央組織を再編成するために、氏に関係なく個人の才能や功績を元に冠位を与えようというものでした。
また、604年には憲法十七条が定められました。
これは憲法といっても、大日本帝国憲法や日本国憲法のような法律ではなく、官僚に対して役人としての心構えを説くものでした。
その一には「和を以て貴しとなし、忤ふること無きを宗とせよ。」、「仲の良いことを最上のこととし、道理に逆らうことしないのを信条とせよ」と説いたり、その二には「篤く三宝を敬え」とあり、「仏、仏教の教え、仏教の僧を敬いなさい」と説いています。
十七条全部は紹介できないですが、一度全文を読むことをお勧めします。
遣隋使の派遣
しばらく途絶えていた中国との外交が遣隋使によって再開されました。
隋の歴史書「隋書」によると第1回の遣隋使派遣は、600年であるとされています。しかしこの派遣は日本の歴史書には書いてないことから、失敗に終わり成果のなかった派遣だったといわれています。
日本の歴史書に書いてある最初の派遣は607年で小野妹子が渡った時です。
遣隋使の行った中国との外交は今までとは大きく異なりました。いままでは冊封を受けて国として認められるために貢物をする冊封体制下での朝貢を行っていました。
ところが、遣隋使が行ったのは対等な関係で国交を結ぶものでした。当時の隋の皇帝煬帝はこれに対して無礼であると怒ったようです。
しかし、高句麗との戦いに苦戦を強いられていた最中であったため仕方なくという感じで受け入れられたようです。
翌年608年に隋の返答使である裴世清とともに小野妹子は帰国しました。その他にも遣隋使に同行した留学生の高向玄理、留学僧の南淵請安、旻などの人たちは大化の改新後の政治で大きな役割を果たしました。
ヤマト政権は有力な豪族たちの支えのもと、海外の文化を取り入れ国際的になっていきました。
今後も中国をお手本に法律を定めていくことになります。そのうえで重要だったのが留学経験のあるグローバルな人材でした。今も昔も求められる人材に変わりはないようです。
氏姓制度で基礎を固めたヤマト政権と反乱
ところでヤマト政権って?
教科書では何の脈絡もなくヤマト政権というワードが出てきますがもう一度定義と意味を確認したいと思います。(このサイトでもいつかの記事で使っています...。)
ざっくりいうと、ヤマト政権とは「倭国の長である大王を中心として有力な豪族たちと作り上げた政治基盤」です。のちの朝廷の卵というイメージで間違えはないです。
大王=天皇であり、呼び方の違いであると理解するとわかりやすいです。
しかし、一般的には万世一系の天皇家とされていますが、あとで出てくる継体天皇の代で家系が変わったという説もあり、仁徳天皇と継体天皇以降の天皇の血がつながっていない可能性も無きにしも非ずと言われています。
まとめると、バラバラだった国家の始まりに最初のリーダーとなったのが大王であり、それに従ったのが有力豪族で、この日本を治めることになったグループをヤマト政権と呼ぶ、ということになります。
名称のヤマトというのは、広く近畿地方を指し、政権の中枢が河内あたりに置かれたことに由来しますが、カタカナでヤマトと表記する場合は日本全体を指すそうです。
強くなるヤマト政権
古墳時代の中期からヤマト政権は統制力を増していきました。
その例として、中期に古墳が巨大化したことや、終末期に前方後円墳の造営がきっぱり終わってしまうこと、様々な制度が出てきたことがあります。
前の記事でも触れたように、豪族たちは前方後円墳を作らなくなり、円墳や方墳を作るようになりました。有力な農民も群集墳を作ったり、大王家は八角墳という大王家のみが作れる形の古墳を作りました。
さらに、もう少し立つと古墳の造営自体がストップし古墳時代は終わりを告げます。このように、人によって作れる古墳と作れない古墳ができたことは政権の統制力が強くなったことを示します。
ヤマト政権の看板制度「氏姓制度」
ヤマト政権の代表的な制度に氏姓制度というものがあります。これは豪族たちや有力な首長たち、渡来人系の技術者などを大王を頂点とする一つの集団として編成するための制度でとても複雑な制度になっています。
氏(うじ)
まず、氏の話です。すべての豪族は血縁や政治的なつながりを元に「氏(うじ)」に編成されました。「一族」という感じです。蘇我氏や物部氏などの氏です。
この氏のリーダーを氏上(うじのかみ)と言い、メンバーを氏人と言います。
氏の名前は地名で付けられるものと職掌(仕事)で付けられるものがあります。
例を挙げると、蘇我氏、平郡氏、葛城市は地名由来で、物部氏、大友氏,忌部氏(いんべし)、中臣氏などは職掌由来です。
また、氏ごとに政権の職掌が与えられそれぞれの一族が担当しました。
上に挙げた蘇我氏は財政を担当し、物部氏は軍事を、忌部氏は祭祀を担当しました。
ここまでは理解できたでしょうか? 続いて姓(かばね)の話に移ります。
姓(かばね)
姓は氏ごとに与えられた称号で、位のようなものだととらえてください。
中央の有力豪族には連(むらじ)と臣(おみ)の姓が与えられ、大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)という地位に列せられました。大臣は大王家と並ぶほどの豪族が、大連は特定の職掌で政権に仕える有力豪族が列せられました。
先ほどの例では、蘇我氏、平郡氏、葛城氏は大臣を、物部氏、大友氏は大連を与えられました。物部氏、大友氏は軍事という特定の職掌で仕えていたので、大連なわけです。
この姓はミドルネーム的に名乗られ、蘇我稲目は正式には蘇我大臣稲目であり、物部守屋は物部大連守屋となります。
余談ですが、この名残かあとの時代では朝廷からもらうくらいに応じた役職がミドルネーム的に名乗られます。
織田信長も若いころに織田上総守信長と名乗り(自称ですが)、徳川家康も徳川三河守家康と名乗りました。私もペンネームを伊勢守と名乗っています。
つづいて、中央と地方の普通の豪族です。彼らには臣、連、君、直(あたい)、造(みやつこ)、首(おびと)などのバリエーション豊かな姓が与えられました。
地位は連、造は伴造(とものみやつこ)に、臣、君、直は国造(くにのみやつこ)に列せられました。国造は地方豪族から選ばれ、地方の支配権を掌握しました。
ここまでが氏姓制度の中での豪族の話でした。続いていっぱいいる民たちの話になります。
部民(べみん)
一般庶民の民たちは部民(べみん)という集団に編成されました。
大王に直属している民は、名代(なしろ)と子代(こしろ)に編成され、様々な形で大王に仕えました。
また、ヤマト政権の直轄地である屯倉(みやけ)で耕作をする民を田部(たべ)に編成しました。
豪族も私有地である田荘(たどころ)に私有民を持っており、彼らは部曲(かきべ)に編成されてそれぞれの豪族に仕えました。
また氏のメンバーの家に仕える奴隷的な民も存在しており、奴(やつこ)と呼ばれました。
いろいろな技術を持った人たちは前の記事でも紹介した、錦織部、韓鍛治部、史部などの品部(しなべ)に編成されました。
品部は伴造が統率し、集団として政権に所属しました。
反乱、磐井の乱の発生
ヤマト政権が統治の基礎を固め、力を増していく中、527年に反乱が発生しました。
首謀者は筑紫国造磐井です。彼は伽耶国に向かう朝廷の軍と戦い、進軍を妨げました。
当時朝鮮半島では力を増した新羅が、伽耶諸国を攻めていました。そんな中、伽耶諸国と国交のあった日本は新羅に奪われた南加羅を復興させるために援軍を送りました。
磐井は新羅と結んでいたためこの援軍の朝廷軍と戦ったのです。
この反乱は約2年もの間続いたと言われ、大苦戦が強いられたようです。最終的に朝廷が物部麁鹿火(もののべのあらかひ)という人を派遣し、この反乱は鎮圧されました。
その後、磐井の治めていた土地は屯倉に組み込まれました。反乱の芽を摘むために直轄地にしたのです。
ちなみに、この磐井の墓が石人、石馬で有名な岩戸山古墳であるとされています。
このようにして古墳時代はヤマト政権の強大化という形で幕を閉じ、次の時代を担う重要な政権となりました。
それが朝廷であり、そのリーダーが現在も続く天皇家でもあるわけです。次回からは朝廷という形が本格的に完成する飛鳥時代に突入します。
【あつ森】マイデザインで作る平安貴族の服~それぞれの歴史を添えて~(作品IDあり)
どう森の醍醐味と言えばたくさんありますが、欠かせないのは自由度の高いファッション。
きぬよさんのお店でコアなアイテムも手に入りますがそれでも物足りないときは自分で作れるのもどう森のいいところです。
そんなわけでエイブルシスターズでは絶対に手に入らないであろう平安装束を作ってみたのでご紹介します。(十二単は取り扱いがあるみたいです。)
ちょっとした解説と一緒にご覧ください!
各解説のこの位置に赤字で作品IDもつけてあるので気になったら着てみてください。
狩衣
狩衣は主に平安時代から着られるようになった貴族の服です。(上の画像は烏帽子の代わりにニット帽かぶってます。)
もともとは外で鷹狩りや蹴鞠をするときに着られたスポーツウェアのようなものです。袖を絞って腕を出せるので動きやすかったようです。
(袖の点線がひもで、引っ張ると袖口が巾着みたいにつぼまります。)
次第に動きやすさからの一般貴族の普段着になったようです。
平安以降の時代、武士の時代になると狩衣を着るのは公家に限定され、礼服として着られるようになりました。
明治以降になると洋服が正装となったため狩衣は礼服のポジションから外されましたが、神主や宮司などの神職の服として定められました。
作品ID MO-LBSM-9C40-75J4
公家と貴族の違い
公家=貴族という考えで間違えはありませんが、公家という言葉は武士が出現してから使われるようになった言葉です。
平氏や源氏など武士の一門も元をたどれば貴族になるため、戦いを生業とする武士と朝廷に仕えて生活する貴族を明確に分けるために、「武家」の対義語的に「公家」という表現を使うようになりました。
束帯
束帯は平安時代の役人の朝服と呼ばれる仕事着です。最も正式な正装でもあり、スーツみたいなものだと考えるとわかりやすいです。
しかし、この形態になったのは院政期ごろと言われており、平安中期ごろまでは中国風の束帯が着られていたと考えています。
朝廷には大きく分けて二種類の役人がおり、それぞれ違った束帯を着用しました。
事務などを担当する文官と内裏の警護などを担当する武官です。
文官の束帯は縫腋の袍(ほうえきのほう)、武官の束帯は闕腋の袍(けってきのほう)といい、闕腋の袍の方が戦う武官用なので動きやすくなっています。
この束帯のつくりは非常に複雑なつくりで、位によって石帯というベルトの材質や袍の色、裾(きょ)という後ろに長く伸びた部分の長さまで細かく定められています。
ちなみに上のマイデザイン束帯は文官の縫腋の袍です。
(束帯には冠をかぶりますがないのでニット帽で。)
最近では2019年に行われた即位礼正殿の儀で皇族や宮内庁の役人が着用していました。
儀礼の最中に天皇に杓を渡した人が着ていたのが縫腋の袍で、儀礼開始の太鼓と鉦を叩いていた人が着ていたのが闕腋の袍です。
YouTubeなどに即位礼の動画があると思いますのでこれを知ったうえでもう一度ぜひご覧ください。
ちなみに、束帯は最上級の礼服なので堅苦しく着づらいものだったため、簡略化した衣冠という服も出来ました。
上着の袍はそのままで、下に着る襲(かさね)などを大幅にカットし、裾もなくしました。
また、穿くものは袴ではなく袴よりゆったりふわっとした指貫(さしぬき)というものを着用しました。
しかし簡略化しても礼服であるため袍の色は位によって決められたものに限られました。
作品ID MO-Q790-F27B-S9JT
直衣
直衣は上級貴族の普段着です。形状は衣冠とほぼ同じですが、普段着なので好きな色を着ることができました。
また、勅許をもらい、冠をかぶれば直衣での参内(内裏に参ることで、出勤のような感じ)も出来たようです。
しかし、普段着で出勤できたのは三位以上のごく少数のトップの貴族のみだったようで、それ以外は束帯や衣冠の着用が求められたようです。
また、一説には直衣自体の着用に勅許が必要だったとも言われています。
作品ID MO-HVJQ-9XRN-BLYD
衣紋道と服
このような日本の伝統的な装束について着付けの方法を学ぶ学問を衣紋道といいます。(衣紋掛けの衣紋です。)
現在では神主や宮司など神職に就く方は身につけなければならない知識となっているようです。また、宮内庁には衣紋方という着付けを専門に行う役職もあります。
貴族にとっても誰にとっても服を着こなすことは何よりも大切なことで、今も昔も変わらないことのように思います。
どう森の中でも和服を着こなしてみてはいかがでしょうか?
神代文字や古代文字など、歴史好きにおすすめしたいフリーフォント4選。
今回は、少し特殊なフリーフォントたちを紹介します。
選んだ基準は「歴史的に見て面白いか」。フォントの紹介とともに、それぞれの歴史も簡単にまとめてみました。
遊び心のあるデザインや、古文書のようなデザインを作りたいときに最適です!
神代文字
神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字伝来以前に古代日本で使用されたと紹介された多様な文字、文字様のものの総称である。江戸時代からその真贋について議論の対象となっており、偽作と主張されているものが多い。
最初の二つは神代文字と呼ばれる文字です。
神代文字とは、上に引用した通り、漢字が伝来する前に日本で使われていたとされる文字のことです。下で紹介する「ホツマ文字」や「トヨクニ文字」のほかにも、なん十個もの種類が存在します。
鎌倉時代に朝廷によって研究されていたほか、江戸時代にも多くの学者たちによって研究されていましたが、近代以降は「漢字が伝来する前の日本に固有の文字はなかった」というのが一般的な説であるようです。一方で、神代文字の存在を支持し続けている人ももちろんいます。
神代文字の存在を否定する意見や、それに対する反論はWikipediaに詳しく書かれていますが、一言でいうと、神代文字の存在はいまだはっきりしていないということです。^^;
ホツマ文字
ヲシテは、日本で古い時代に用いられたとされる文字、いわゆる「神代文字」の一種。その真贋については江戸時代から議論の対象となっている。これを用いて書かれたとされるヲシテ文献がある。
ホツマ文字は「ヲシテ」と表記されることもあるようです。(最近はこっちの呼び方がメジャーみたい?)
奈良時代やそれ以前の時代に使われていた日本語には、現代の日本語と違って、母音が八つあったとされています(上代特殊仮名遣)。つまり、もし漢字以前に使われていた文字があったならば、その文字にも同様に八つの母音があったはずです。
しかしホツマ文字には、母音は五つしかありません。
これが、ホツマ文字の(漢字伝来以前の)存在が否定される大きな理由です。
一方で、ホツマ文字の存在を支持する人たちは、ホツマ文字が用いられている文献は、記紀よりもさらに前の時代に書かれたと主張しています。
上代特殊仮名遣は、記紀などの漢字で書かれた文献をもとにしているため、「昔は母音が八つあった」という説そのものを否定しています。
いづれにせよ、考古学的な資料は江戸時代中期よりも前の時代のものが見つかっていないため、「少なくとも江戸時代中期には存在していた」ということしか言えません。
ダウンロードリンク
トヨクニ文字
豊国文字(とよくにもじ)は、『上記』(うえつふみ)等に用いられている神代文字の一種。神宮文字と呼ぶ事もある。
トヨクニ文字の存在は、現代では一般的には支持されていません。しかし、トヨクニ文字はカタカナの起源なのではないかという説もあります。
トヨクニ文字で書かれている『上記』は、序文に「1223年に書かれた」とありますが、1811年に平田篤胤があらわした文書の影響がみられるため、実際には江戸時代の作品であるとされています。
現在発見されている中で、最も古い考古学的な資料は、大分県にある臼杵城の石垣に書かれた文字です。この城は1562年に建設されたため、少なくともその時代には存在していたといえます。
ダウンロードリンク
忍者文字
忍者文字(にんじゃもじ)とは、忍者が使ったといわれる暗号。忍者文字とよばれる文字には数種類があるが、実際に使われた証拠のあるものは存在しない。
いくつか種類がある中の、伊賀流忍者が使用したとされている神代文字風の忍者文字です。伊賀上野観光協会が、町おこしの一環として無償で配布しています。
ダウンロードリンク
源氏香
香道における聞香の遊びの一種。文様・家紋の一種。上記の源氏香より出たもので、和服などにひろく用いられる日本固有の意匠である。
和服のほかにも、和菓子の包み紙や手ぬぐいの柄などにも使われます。
もともとは香道の楽しみ方の一つであり、成立したのは享保年間(1716年から1736年)とされています。
図であるため、文章を書くことはできませんが、どこかで使う機会が来るかも...?
ダウンロードリンク
香り遊び源氏香のフォント Genjiko Font illllli Original Design Font
最後に
いかがでしたか?
数多くあるフリーフォントの中から、歴史的に見て面白いものをピックアップして紹介してみました。解読するのは少し大変ですが、面白いことは間違いありません。^^;
ぜひ使ってみてください!
それでは。
大陸と古墳時代の生活
古墳時代前期の大陸って?
古墳時代前期の大陸の様子について解説していきたいと思います。ここでいう大陸とは中国と朝鮮半島を指します。当時中国は北にいた騎馬民族の五胡に侵攻され、国土は縮小し、南下していました。この時代を五胡十六国時代といい、その後の北魏と宋に分かれた時代を南北朝時代と言います。
そのころ、朝鮮半島には四つの国がありました。北には中国東北部から生まれた高句麗、南には馬韓、弁韓、辰韓という国がありました。南の三つの国はそれぞれ小さい国の連合国でした。四世紀になるとそれぞれの中で1つの国が台頭してくるようになりました。それが以下の通りです。
弁韓→伽耶諸国(まだ1つの国が台頭するわけではなく連合状態が続いていました。)
見たことのある国が出てきたと思います。これで朝鮮半島には高句麗、百済、新羅の3つの統一国家と連合国の伽耶諸国の4つの勢力が存在することになりました。
日本との関係は?
この頃になると日本は他国と戦うようになりました。その原因は鉄の確保をめぐる問題にあったようでした。伽耶諸国は百済ともに南下してきた高句麗と交戦することになりました。
上の地図では赤矢印が高句麗です。伽耶諸国と仲良しだった日本は一緒に参戦しました。このことは高句麗の丸都にある好太王の碑文の刻まれており、日本が海を渡って戦いに来たことがうかがえます。
この戦で日本の軍勢は高句麗の騎馬軍とたたかいました。このことが日本が馬術について触れる機会となり、中期古墳の副葬品の変化にも関係しているとされています。また、高句麗との交戦後、百済や伽耶諸国から多くの渡来人が日本にわたり、進んだ技術を伝えたことも大きな要因と言えます。
5世紀初めから倭の五王と呼ばれる5人の天皇が代々中国の南朝への朝貢をしました。
南朝の歴史書「宋書」倭国伝には、5人の名を讃、珍、済、興、武と記されています。これを天皇に置き換えると、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇にあてはまります。
しかし、讃と珍についてはどの天皇をあてるかがはっきりしておらず、いまだわかっていません。
朝貢をした理由は前の記事で書いた冊封体制が大きくかかわっています。さっき話したように、この頃の日本は朝鮮半島と深いかかわりを持っており、他国よりも少しでも優位に立つことが求められました。そこで偉い偉い中国の皇帝に認めてもらうことで権威を確立したのでした。
これに関して武の雄略天皇は宋の皇帝から「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」という長すぎる称号をもらっています。
大陸から伝わったもの
渡来人と部
大陸からは物単体というより、何か特別な技術を持った人が渡ってきました。そして、日本のヤマト政権はそういった人たちを業種別にまとめて部(べ)という集団にまとめました。
ここでは部について解説していきます。
余談ですが名字の田部や服部、長谷部などの部のつくものはこの職業集団の部に由来していると言われています。
主な部として、韓鍛治部(からかぬちべ)、陶作部(すえつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、鞍作部(くらつくりべ)などがあります。韓鍛治部は、武具、農具などの金属製品、陶作部は須恵器という朝鮮から来た硬質で灰色の新しい土器や土師器(はじき)という弥生土器系の土器を、錦織部は布系を、鞍作部は鞍などの馬具を作っていました。
プロの渡来人と漢字
このような渡来人の中にヤマト政権を支えた三つの氏族の祖先もいました。
それが阿知使主(あちのおみ)、王仁(わに)、弓月君(ゆづきのきみ)です。
阿知使主は文筆を主とする史部(ふひとべ)の管理をし、東漢氏(やまとのあやうじ)の祖となりました。
王仁は「論語」や「千字文」(千文字被りなしでいろんなことを書いた本)を伝え、西文氏(かわちのふみうじ)の祖となりました。
弓月君は養蚕や機織りを伝え、秦氏(はたうじ)の祖となりました。秦氏は京都の太秦の地名の由来ともいわれています。
王仁さんが「論語」などを伝えたりしたことで漢字も使われるようになりました。音だけをとって日本語の発音にあてて使いました。この漢字を使えた人々が、史部の人たちでした。
宗教
論語と関係して、六世紀には百済の五経博士という人が儒教を伝え、538年には同じく百済の聖明王という人が日本に仏像とお経をおくり、日本に仏教が公伝しました。
公伝というのは正式に政府間(政権間)で伝わったということで、この以前にも民間のレベルで一部には仏教が伝わっていたといわれています。
しかし、この仏教公伝の時期には「上宮聖徳法王帝説」「元興寺縁起」をソースとする538年の説と、「日本書紀」の552年の説があります。「日本書紀」にはフィクションが多いことなどから538年が有力とされています。
また、この「日本書紀」のもととなった「帝紀」や「旧辞」という歴史書もこのころから編纂が始まったとされています。
古墳時代の人の暮らし
古墳時代の地方では豪族が地元民を支配していました。豪族たちは庶民と少し離れたところで、堀と柵に囲まれた居館を建てて暮らしました。
庶民たちは環濠のない竪穴式住居の集落に住んでいました。土器は先ほど話した土師器が使われ、五世紀にワンランク上の須恵器が伝わり使われるようになりました。
日本の伝統、お祭りは春と秋に一回づつ、五穀豊穣を祈る祈年祭と収獲感謝祭の新嘗祭が日本各地で行われました。
ちなみに新嘗祭のうち天皇が即位してその天皇が最初に行うものを大嘗祭と言い、2019年にも行われました。
他にも神道的な禊や、祓の考えもこのころできはじめ、鹿の骨や亀の甲羅を焼いてひびの形で占う太占の法(ふとまに)や熱湯に手を突っ込んで裁判する盟神探湯(くかたち)などの儀式も行われました。
ちなみに大嘗祭に使うお米や野菜の産地は太占の法で決められるようです。
盟神探湯は人への裁きを完全に神にゆだねるという意味合いがあったようです。
大陸の最先端の技術を持った渡来人たちがやってきたことにより、日本の技術が大きく進展しヤマト政権の強い味方となったのでした。
古墳時代の古墳
古墳時代って?
弥生時代が終わると、古墳時代に突入します。その名の通り古墳づくり全盛期の時代です。西暦にすると3世紀中期から7世紀初めごろまでです。
4、5、6とざっくり1世紀づつを前期、中期、後期に分けると変遷が分かりやすいです。7世紀初めは飛鳥文化との過渡期にあたります。そのころは古墳づくりは廃れ、お寺ができるようになりました。
他国との戦いが本格化したのも古墳時代からで、鉄の確保が大きな問題となっていたようです。
古墳の特徴
先に話した三つの時期で、古墳は大きく異なります。ここではその特徴を前期、中期、後期、に分けて解説していこうと思います。
前期の特徴
古墳時代前期は区分で言うと3世紀中ごろから4世紀後半にあたり、古墳ができ始めてきたころです。弥生時代後期には古墳の原型のような墳丘墓という小さいお墓が作られました。「ざっくり弥生時代」の記事で書いた楯築墳丘墓や四隅突出型墳丘墓、方形周溝墓がそれにあたります。
nihonshi-wasshoi.hatenablog.com
さて、古墳時代に入るとあの前方後円墳が作られ始めます。このころのものとしては、奈良の纏向遺跡の箸墓古墳が有名で、この頃としては最大の規模を持ちます。一説には卑弥呼の墓であると言われています。
前期の特徴の一つとしては棺を納める部屋が竪穴式石室や粘土槨であることです。
竪穴式石室とは上から穴を掘って棺を入れる部屋で、イメージとしてはアメリカのお墓みたいに一回埋めたら掘り返さないと、出せない感じです。粘土槨とはその名の通り粘土で棺を覆うことで、このタイプの古墳には石室は作られませんでした。
副葬品は銅鏡や玉の腕輪、勾玉、玉杖、鉄の武器、農具などでした。これらは棺と一緒に石室に納められました。
このような副葬品を見ることで、どんな人が葬られたのかを推測することができます。例えば、釣りが好きだったおじいちゃんの棺桶に釣り竿やルアーを入れてあげるみたいな感じです。
ここでは銅鏡や腕輪なので、おしゃれな人だとも考えられますが、当時銅製の道具は呪術に使われたので、ここには司祭者のような人が埋まっていたと推測されます。このように、前期に古墳に埋葬されたのは主に司祭者であったと考えられています。
ここで副葬された銅鏡は三角縁神獣鏡です。この起源については中国から来たとする舶載鏡説と渡ってきた中国の工人が日本で作ったとする仿製鏡説があります。
前期はもう立派な古墳時代なので、もちろん埴輪も飾られました。この頃は円筒埴輪といって、ただの筒状の土器で、おなじみの可愛い埴輪ではありませんでした。
その他にも、家の形の形象埴輪や、盾や傘、矢を入れる靭の形の器財埴輪も飾られました。埴輪は石室内ではなく古墳の上に並べて飾られました。
古墳時代中期
時代も下り、古墳時代も中期に入りました。西暦で言うとおよそ4世紀後半から5世紀ごろです。この頃になると前方後円墳が巨大化します。
有名なのは2019年に世界遺産に登録された大阪の大仙古墳やその近くにある誉田御廟山古墳です。大仙古墳は仁徳天皇陵と言われていますが、信憑性は低いです。そもそも大仙古墳の造営時期と、仁徳天皇の在位期間に大幅なずれがあるようです。
中期の石室は前期と同じく竪穴式石室でした。しかし、5世紀ごろになると朝鮮から九州に横穴式石室というタイプの石室が伝わります。これは画期的な石室で、一度棺を納めても、後から石室に入れるので追葬といって、あとから別の棺を納めることも可能になりました。
横穴式石室は後期になると広く普及しますが、この段階では九州などの一部の地域だけでした。
副葬品も大きく変わりました。銅のおまじない用具から鉄剣、鉄の弓矢、鉄の甲冑、鉄の馬鎧などの鉄の武器に変わりました。前述した理論でいくと、中期に古墳へ埋葬されたのは武人のような軍事力を持った人であったと推測されます。
これに関して一説には、大陸の騎馬民族に日本が征服されたため、その民族の特徴である武人的要素が出てきたといわれています。
この頃の古墳には動物や人間をかたどった形象埴輪が並べられるようになりました。おなじみのあの埴輪です。
古墳時代後期
とうとう古墳もクライマックス、古墳時代後期に入りました。西暦では6世紀から7世紀ごろです。
この頃には、近畿地方以外で大きな前方後円墳が見られなくなりました。これは、近畿地方(中央)の勢力に地方の豪族たちが服属する体制が出来上がったためであると考えられています。つまり、中央の権力者だけが大きな前方後円墳を作れるようになったのです。
さらに、前方後円墳に加えて各地で小さい古墳の集合体である群集墳が作られました。他にも石室に絵を描いた装飾古墳も作られ、多様な古墳が現れました。
群集墳では和歌山の岩橋千塚古墳(岩橋と書いて、いわせと読みます。)や吉見百穴が有名です。装飾古墳では奈良県明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳が有名です。
斑鳩町の藤ノ木古墳は副葬品が豪華すぎることで有名です。この副葬品には像の装飾などの大陸文化の一端が見られ、飛鳥文化の特徴がみられます。
この頃になると全国的に横穴式石室が広まりました。すると、追葬ができることから家族の棺を納めた家族墓も出てきました。
副葬品は武具や馬具など軍事的なものもあるものの、飲食用の土器などの生活用品が中心的に納められるようになり古墳に生活感が出てきました。
このことや群集墳が増えたことから、首長クラスの人だけでなく有力農民などの少し下の身分の人も古墳を作るようになったと推測されます。
この頃は動物や人、家や船などの形象埴輪が盛んに飾られました。しかし、九州北部などでは埴輪とともに石人、石馬という石でできた人形を飾るようになりました。福岡県の岩戸山古墳が有名です。ここには筑紫国造磐井が埋葬されています。
古墳時代終末期
古墳時代後期と飛鳥時代が被る7世紀の期間を終末期と呼ぶことがあります。
先に挙げたように藤ノ木古墳には西アジア風の冠や韓国で出土したものにそっくりな靴など大陸から渡ってきたであろう文化が反映されています。また、高松塚古墳の壁画は白鳳文化に分類され、四神や星宿図という天文図も描かれています。
このような高度な装飾がなされた背景には大陸文化の影響があったと考えられます。日本独自の文化、古墳と大陸からのハイレベルな技術が融合した異色の古墳が作られたのが古墳時代終末期でした。
さらに、古墳時代後期から近畿の勢力を中心とするヤマト政権が体制を整え始め、その頂点にあるオオキミ(大王)の一族とその他もろもろの豪族たちとの明確な違いを示すために、大王一族の古墳だけ八角形に作るようになりました。これを八角墳といいます。
こうして、現代に至るまで続く天皇家を頂点とする国家の基盤、ヤマト政権が着々と体制と整えていきました。この後、渡来人の技術者を政権に取り込んだり、直轄地を設けたりしてさらに政権を確固たるものにしていきました。