(┘゜∀゜)┘日本史わっしょい└(゜∀゜└)

日本史に関する解説を投稿していきます。

大陸と古墳時代の生活

古墳時代前期の大陸って?

古墳時代前期の大陸の様子について解説していきたいと思います。ここでいう大陸とは中国と朝鮮半島を指します。当時中国は北にいた騎馬民族の五胡に侵攻され、国土は縮小し、南下していました。この時代を五胡十六国時代といい、その後の北魏と宋に分かれた時代を南北朝時代と言います。

そのころ、朝鮮半島には四つの国がありました。北には中国東北部から生まれた高句麗、南には馬韓弁韓辰韓という国がありました。南の三つの国はそれぞれ小さい国の連合国でした。四世紀になるとそれぞれの中で1つの国が台頭してくるようになりました。それが以下の通りです。

馬韓百済

弁韓伽耶諸国(まだ1つの国が台頭するわけではなく連合状態が続いていました。)

辰韓新羅

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見たことのある国が出てきたと思います。これで朝鮮半島には高句麗百済新羅の3つの統一国家と連合国の伽耶諸国の4つの勢力が存在することになりました。

日本との関係は?

この頃になると日本は他国と戦うようになりました。その原因は鉄の確保をめぐる問題にあったようでした。伽耶諸国は百済ともに南下してきた高句麗と交戦することになりました。

上の地図では赤矢印が高句麗です。伽耶諸国と仲良しだった日本は一緒に参戦しました。このことは高句麗の丸都にある好太王の碑文の刻まれており、日本が海を渡って戦いに来たことがうかがえます。

この戦で日本の軍勢は高句麗の騎馬軍とたたかいました。このことが日本が馬術について触れる機会となり、中期古墳の副葬品の変化にも関係しているとされています。また、高句麗との交戦後、百済伽耶諸国から多くの渡来人が日本にわたり、進んだ技術を伝えたことも大きな要因と言えます。

5世紀初めから倭の五王と呼ばれる5人の天皇が代々中国の南朝への朝貢をしました。

南朝の歴史書宋書倭国伝には、5人の名を讃、珍、済、興、武と記されています。これを天皇に置き換えると、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇にあてはまります。

しかし、讃と珍についてはどの天皇をあてるかがはっきりしておらず、いまだわかっていません。

朝貢をした理由は前の記事で書いた冊封体制が大きくかかわっています。さっき話したように、この頃の日本は朝鮮半島と深いかかわりを持っており、他国よりも少しでも優位に立つことが求められました。そこで偉い偉い中国の皇帝に認めてもらうことで権威を確立したのでした。

これに関して武の雄略天皇は宋の皇帝から「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」という長すぎる称号をもらっています。

大陸から伝わったもの

渡来人と部

大陸からは物単体というより、何か特別な技術を持った人が渡ってきました。そして、日本のヤマト政権はそういった人たちを業種別にまとめて部(べ)という集団にまとめました。

ここでは部について解説していきます。

余談ですが名字の田部や服部、長谷部などの部のつくものはこの職業集団の部に由来していると言われています。

主な部として、韓鍛治部(からかぬちべ)、陶作部(すえつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、鞍作部(くらつくりべ)などがあります。韓鍛治部は、武具、農具などの金属製品、陶作部は須恵器という朝鮮から来た硬質で灰色の新しい土器や土師器(はじき)という弥生土器系の土器を、錦織部は布系を、鞍作部は鞍などの馬具を作っていました。

プロの渡来人と漢字

このような渡来人の中にヤマト政権を支えた三つの氏族の祖先もいました。

それが阿知使主(あちのおみ)、王仁(わに)、弓月君(ゆづきのきみ)です。

阿知使主は文筆を主とする史部(ふひとべ)の管理をし、東漢氏(やまとのあやうじ)の祖となりました。

王仁は「論語」や「千字文」(千文字被りなしでいろんなことを書いた本)を伝え、西文氏(かわちのふみうじ)の祖となりました。

弓月君は養蚕や機織りを伝え、秦氏(はたうじ)の祖となりました。秦氏は京都の太秦の地名の由来ともいわれています。

王仁さんが「論語」などを伝えたりしたことで漢字も使われるようになりました。音だけをとって日本語の発音にあてて使いました。この漢字を使えた人々が、史部の人たちでした。

宗教

論語と関係して、六世紀には百済五経博士という人が儒教を伝え、538年には同じく百済聖明王という人が日本に仏像とお経をおくり、日本に仏教が公伝しました。

公伝というのは正式に政府間(政権間)で伝わったということで、この以前にも民間のレベルで一部には仏教が伝わっていたといわれています。

しかし、この仏教公伝の時期には「上宮聖徳法王帝説」「元興寺縁起」をソースとする538年の説と、「日本書紀」の552年の説があります。「日本書紀」にはフィクションが多いことなどから538年が有力とされています。

また、この「日本書紀」のもととなった「帝紀」や「旧辞」という歴史書もこのころから編纂が始まったとされています。

古墳時代の人の暮らし

古墳時代の地方では豪族が地元民を支配していました。豪族たちは庶民と少し離れたところで、堀と柵に囲まれた居館を建てて暮らしました。

庶民たちは環濠のない竪穴式住居の集落に住んでいました。土器は先ほど話した土師器が使われ、五世紀にワンランク上の須恵器が伝わり使われるようになりました。

日本の伝統、お祭りは春と秋に一回づつ、五穀豊穣を祈る祈年祭と収獲感謝祭の新嘗祭が日本各地で行われました。

ちなみに新嘗祭のうち天皇が即位してその天皇が最初に行うものを大嘗祭と言い、2019年にも行われました。

他にも神道的な禊や、祓の考えもこのころできはじめ、鹿の骨や亀の甲羅を焼いてひびの形で占う太占の法(ふとまに)や熱湯に手を突っ込んで裁判する盟神探湯(くかたち)などの儀式も行われました。

ちなみに大嘗祭に使うお米や野菜の産地は太占の法で決められるようです。

盟神探湯は人への裁きを完全に神にゆだねるという意味合いがあったようです。

大陸の最先端の技術を持った渡来人たちがやってきたことにより、日本の技術が大きく進展しヤマト政権の強い味方となったのでした。