(┘゜∀゜)┘日本史わっしょい└(゜∀゜└)

日本史に関する解説を投稿していきます。

小さい国々と邪馬台国と卑弥呼と中国

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中国から見た日本

弥生時代の国々の状況は縄文時代弥生時代の生活とは違って文字で記された資料を調べて研究されます。しかし、当時の日本には文字を記す技術はないので、交流のあった中国の人が残してくれた歴史書にかかれています。のちに出てくる○○書 △△志(伝)は○○王朝が書いた歴史書の△△というパートだと理解してください。

1~2世紀ごろの日本

中国は当時前漢王朝の時代でした。その当時書かれた前漢の歴史書漢書」地理志に日本のことが倭国として書かれています。

それによると倭は約100の国に分かれており、朝鮮半島にある楽浪郡という漢の直轄地に定期的に使者を送っていたようです。(楽浪郡は現代のピョンヤン付近の当たります。冷麺が有名なところです。)

その後の後漢王朝の「後漢書東夷伝には、57年に奴国の王が後漢の都である洛陽に使者を送り光武帝から金印をもらったと書かれています。この金印は江戸時代に福岡県の志賀島で農民が見つけました。金印には漢委奴国王と記されており、光武帝から奴国王が冊封※1をうけたことを示しています。また、107年には倭国王帥升という別の王が生口(奴隷)160人を後漢の安帝に献上したとこも東夷伝に記されています。

※1 冊封  当時の世界の中心は中国でした。中国の皇帝が一番偉いことになっていました。これを中華思想といいます。そこで、小国の自称王様たちは一番偉い皇帝に貢ぎ物をして一国の王様として正式に認めてもらおうとしました。こうして認めてもらうことをを冊封を受けると言いました。そして、この制度を冊封制度といいます。日本史では外交の上で非常に重要な制度なので覚えておくといいと思います。

3世紀ごろの日本

中国では3世紀初頭、220年に後漢が滅び、時代は三国時代に突入しました。三国志の時代です。この三国志というのは歴史書の名前で、晋の国の陳寿という人が記しました。魏志倭人伝三国志の1パートです。

この魏志倭人伝によると2世紀の終わりごろの倭国では大きな戦乱があったと記されています。これを倭国大乱といいます。この戦乱のさなか、諸国は邪馬台国卑弥呼を女王にすることにしました。すると、戦乱は収まり、邪馬台国を中心をとする約30国の連合が成立しました。しかし、倭国中の狗奴国などは反抗しており、必ずしも一枚岩の連合ではありませんでした。

その後、239年に卑弥呼は魏の皇帝に朝貢し「親魏倭王」の称号と金印(これは出土していません。)、銅鏡をたくさんもらいました。この親魏〇〇王の称号は西域の大月氏の国と同じ位であり、大国と同じレベルに列せられていたと考えられています。

連合を安定させるためにも中国の皇帝から冊封を受けることが重要であり、そのために卑弥呼は使者を送ったと考えられています。つまり、力のある人に認められることで、連合の長である正当性を確立することが必要だったのです。

邪馬台国について

邪馬台国の場所

現段階ではその場所は特定に至っていません。しかし、北九州に所在し、比較的小規模の連合であったとする九州説と、畿内に所在し近畿から九州にかけて比較的な大規模な連合を組んでいたとする近畿説の2説が有力とされています。 魏志倭人伝に倭への経路は書いてあるのですが、それに従うと南の海のど真ん中に出てしまうのであまり参考になりません。出土品から推定するしかないのです。

卑弥呼って?

卑弥呼という名前は魏志倭人伝に登場し、そこでは「鬼道を事とし能く衆を惑はす」と紹介されています。鬼道というのは呪術のことで、神様の声を聴いたり、雨を降らせたりしたようです。ほかにも、「年已に長大なるも夫婿なし。男弟あり、佐けて国を治む」とあり、結婚はしておらず、男性の弟が補佐していたようです。そのため子供はおらず、卑弥呼がなくなった後はリーダー不在で国内は混乱してしまいました。

国の様子

邪馬台国には身分の差が存在していました。上を大人、下を下戸といいます。この差はかなり大きなもので、道端で下戸が大人にばったり出会った場合、下戸は尻込みして草むらに入りうずくまり、土下座のようにして敬意を表したといいます。

その他制度も整い始め、税制や刑罰などもあったり、伊都国という国には監察のため一大率という役職が置かれたりしました。また市も開かれ、市に大倭という役職が監察役として置かれました。

国の終焉

邪馬台国卑弥呼の死とともに大きな岐路に立たされました。卑弥呼は247年に亡くなったとみられています。

魏志倭人伝には「卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人。」とあり、大きな墳丘が作られ、100人を超える人が殉死したようです。(畿内説を取る場合、この塚は箸墓古墳であるとされています。)

その後、臨時のリーダーとして男性の王を擁立しましたが、混乱はおさまりませんでした。そこで、卑弥呼と同族の壱与という女性を擁立し国はとりあえず安定しました。

こうして邪馬台国は266年に再び中国に使者を送りましたが、そこからは150年間にわたり歴史書には一切倭国についての記録がなされていません。

この空白の150年に倭国がどのような状況であったかは謎に包まれています。

人々が国を作って、制度ができると良くも悪くも身分が発生しました。今後の日本の基盤となる原型が邪馬台国といったところでしょうか。この形態を軸に日本は徐々に発展していきます。

ざっくり弥生時代

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弥生時代っていつから?

弥生時代はおよそ紀元前4世紀から紀元後3世紀までを指します。弥生という名称は縄文土器とは違う薄型で褐色の土器が東京の本郷弥生町の向ヶ岡貝塚で見つかったことから、この薄手の土器を主として使っていた時期を弥生時代と呼ぶようになりました。

どんな時代?

弥生時代は、平和でみんな仲良くの縄文時代とは変わって、武器を使った争いが起きるようになりました。

定住したことにより本格的な農業ができるようになり、多く作って、貯蔵するということをするようになったからです。

さらに、まとまった数の多くの人を基礎として都市国家という形で国ができ、そこに卑弥呼のようなリーダー的存在が長として民をたばねるようになりました。

つまり、人が財産を持つようになり、それを力ずくで奪おうとする人が国単位でうまれたのです。

(領土を奪う戦国時代の戦や様々な利害関係の絡んだ世界大戦の小さい版みたいなものです。)

そのため、数々の集落は周りを堀で囲み敵の侵入に備えました。この集落を環濠集落といいます。

他にも、もしもの時のために山などの小高い場所に高地性集落とよばれる集落も作られました。敵が来た時に逃げるためのものだと考えられています。

有名な佐賀県の吉野ケ里遺跡では、環濠のほかに戦死したとみられ、武器による傷のある人骨も見つかっています。一説には北九州にいくつかの小国があったため、国同士の争いによるものだと言われています。

弥生時代の特徴

弥生土器

まず、大きな特徴として土器がアップグレードされ、薄くて丈夫な土器が作れるようになりました。(こころなしか色合いもおしゃれになりました。褐色です。赤です。酸化銅の色です。)

高坏という足のある食器や甕というご飯を炊く土器を主として作りました。

さらに、後で詳しく書きますが、埋葬用の棺桶も土器でつくりました。(人が入る大きさを作る技術がすごいですね。)

まだ研究段階なので何とも言えませんが、弥生時代後期になると漢字のような文字入りの土器も少数見つかっています。

水稲耕作

次に稲作です。稲の伝来ルートには二つの説があります。一つは中国の長江の中下流域からから来た説、もう一つは中国の西、雲南、アッサムあたりから来た説です。現在は前者が最も有力とされています。

そして日本に来たのは縄文時代の終わりごろといわれています。そのころの遺跡としては北九州の菜畑遺跡や板付遺跡が有名です。ここでは稲を栽培しつつ、縄文土器も使っていたことがわかっています。

注意ですが、この遺跡は分類上は弥生時代早期の遺跡になります。(「明日から弥生時代です!」みたいにきっぱり変わったわけではないのでここはちょうど時代の過渡期ですね。)

初めは低湿地のような水の多い湿田を使った稲作を行っていました。

ですがこの方法ではあまり多く高品質な稲を作れないので中期以降には灌漑を行った乾田で稲作できるようになりました。

こうして作られた稲は成熟した穂だけ刈り取って収穫しました。

純粋に一種類の稲だけを植えていたわけではないので成育にバラツキがあったためです。刈り取りには片手大の石包丁を使いました。

そんなこんなでやっとこさ収穫できた稲は臼と杵を使って脱穀されて、湿気を防ぐ高床倉庫で保存されました。この稲作により、時代は採集から生産へ、遊牧から定住に大きく変化しました。生活スタイルの変化が大きな発展をもたらしたのです。

今の日本人がお米を食べれるのは弥生人のおかげといっても過言ではないです。

金属器

三つ目は金属器。金属器と言ってもアルミやステンレスではなく、ここでは青銅器と鉄器を指します。

国ができるとリーダーが生まれます。この頃のリーダーは呪術によって権威を示しました。神様の声が聞こえたり、雨を降らせたりしたのです。そのような宗教的なイベントを祭祀と言い、様々な道具を使いました。

それが銅鐸や銅鏡をはじめとする青銅器です。青銅は銅とスズの合金で時間が経つと緑色に錆びるのが特徴です。日本で発掘された青銅器は元は実用的な道具でしたが、だんだんお祭り用に大きくなり、オブジェ的な存在になりました。

道具にはそれぞれ使われていた地域が微妙に異なっており、北九州では銅戈、山陰地方では銅剣、近畿地方では銅鐸のように別々の地域でまとまって出土しています。

銅剣は島根の荒神谷遺跡、銅鐸は加茂岩倉遺跡で大量に見つかっています。

農業に使われた実用的な金属器は鉄器です。鉄は当初とても貴重なものでした。なので初めの頃は木の道具の刃先だけに薄く板状にしたものを使っていました。

後期になると稲の収穫は石包丁ではなく鉄のカマで、しかも稲の根っこの方から刈るようになりました。だんだんと稲の種類も一本化されていったのです。新しい道具の出現は暮らしを豊かにし、文明を大きく前進させました。

お墓とか諸々

生活にゆとりが出てくると装飾する余裕が生まれ、お洒落になっていきます。

それまでバキバキに曲げて埋めるだけだった埋葬が、土器製の甕棺に入れて埋葬したり(このころから遺体は伸ばして埋葬されるようになりました。)、墳丘墓や方形周溝墓というミニミニ古墳みたいなのに埋葬したり、支石墓と言う大きい石を置いたお墓など多様化していきました。

そんな中でリーダークラスのお墓が徐々に大きくなり古墳のような形式が出来上がったと考えられています。

岡山や山陰地方には楯築墳丘墓や四隅突出型墳丘墓など凝った形のお墓もできました。

ですが弥生時代のお墓のスタンダードな形は正方形の方形周溝墓でした。古墳時代になると超有名なあの形が多くなっていきます。

次回はもう少し詳しく弥生時代の国と中国との関係、古墳時代の前期についてみていこうと思います。

縄文人たち

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縄文っていつから?

縄文時代は約1万年前、完新世の始まりとともに始まります(”更新”して”完”成と覚えるとわかりやすいです。)

完新世になると氷河期が終わり、気温が上昇しました。それにともなって氷河が溶けて海面も上昇しました。これを海進と言います。これによりリアス海岸や入り江が多くでき、漁をするようになりました。このため、貝塚は当時入り江であった現在の内陸部で見つかることが多いです。地殻変動などにより日本列島も今に近い形状になり、気候も現在とほぼ同じ感じになりました。

縄文文化の特徴

縄文文化の特徴は大きく分けて3つあります。

磨製石器

1つ目は磨製石器磨製石器はそれまでの打製石器とは違い石を磨いて加工しました。新しい石器を使い始めたということで、1万年前からを新石器時代ともいいます。

しかし磨製石器を使うから打製石器は使わなくなったわけではなく、縄文時代以降は両用することになります。(Nintendo Switchを手に入れてからもWii Uで遊ぶみたいな感じです。)

矢じりの石鏃、皮をはぐナイフの石匙などは打製石器です。打ち砕くことで黒曜石を鋭く加工することができます。石斧(斧と書いても木を切るのではなく土を掘る用です。)やすり鉢などは磨製石器です。写真で見るとわかりやすいかと思います。石器のほかにも、骨や角から釣り針やモリなども作っていたようです。これを骨角器といいます。

弓矢🏹

2つ目は弓矢。それまでの狩りとは一転して、飛び道具が使えるようになりました。これにより素早い動物も狩れるようになりました。

打製石器でできた矢じりはアスファルトを使って棒につけて矢として使いました。(アスファルト秋田県のほうで採れたようです。)

ほかにも網を使った漁も行われていたり、1本の木で作った丸木舟で海を渡っていたり、活動の幅が大きくひろがっていたようです。ちなみに漆の技術も縄文時代にはあったそうです。

縄文土器

そして3つ目は縄文土器です。縄文土器は大きく分けて草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つの時期に分けられます。

縄文土器といっても草創期のころは模様のない無文土器や細い線のついた隆起線文土器など、縄の模様はついていませんでした。まだ実験段階ということです。

縄の文様は早期以降から増えていき、有名な火炎土器は中期に作られました。晩期になると急須形の亀ヶ岡土器のような手の込んだものも作られました。

縄文人の食事

クリ、クルミ、トチノミ、イモ類、豆類などや動物の肉を食べていました。ここまでは旧石器時代から変わっていません。

しかし、土器の発明により食べ物の煮炊きができるようになり、料理のレパートリーも増えました。土器を使ってドングリやトチノミなどはあく抜きをして食べやすくしたり、余ったものを貯蔵したりしました。

さらに、まだ本格的な農耕とはいきませんが、クリ林を管理したり、ヤマイモの増殖などもしていたようです。

縄文人のお住まい

家はみんな大好き竪穴住居に住んでいました。この生活は奈良時代まで続きます。縄文人は一段下がった半地下の空間で暮らし、中には料理をする炉を置いていました。

家は水の確保ができる水辺に近い場所に、数軒の規模で作られました。

三内丸山遺跡では大規模な集落で1,500年にわたって平和な暮らしをしていて、ほかの地域との交易もしていたようです。北海道で採れた黒曜石なども出土しています。

縄文人の習慣

縄文時代のマスコットといえば土偶ですね。この土偶は女性を模したものが多く、五穀豊穣や子孫繁栄を願って作られたと考えられています。

また、縄文時代にはすべての自然に精霊が宿ると考えたアニミズムという思想がありました。この思想は日本の神道に通じるところがあります。(神道八百万の神々を信仰します。)

ほかにも、これに関連して、死んだ人が生き返って悪いことをするという考えから遺体の関節という関節を折り曲げて埋葬する屈葬が行われていました。

このような習慣は時代を経ていくうちに大きく変わっていき、弥生時代にはまた特徴的な埋葬の仕方や祭祀が行われます。

ということで次は弥生時代を見ていきたいと思います。

日本の始まり

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人類って?

人類は約700万年前に生まれました。自然発生ではなく、進化の過程で今の人間の元となる猿人が生まれました。現在、猿人の化石はアフリカでしか見つかっていないため、アフリカで人類は生まれたと考えられています。有名なアウストラロピテクス南アフリカで発見された猿人です。

そこから進化に進化を重ね、原人、旧人、新人とだんだん今の人間に近づいていきます。猿人の段階で打製石器を使い始めました。300万年以上前のことです。続く原人の段階で火を使い始めました。

このような新たな道具の発明とともに世界中に人類は広がって行きました。(都市伝説的には人類には進化論は当てはまらないという考えもあります。)その後人類は更新世から完新世にかけて大きく発展することになります。

いつ日本に?

日本に来たのはおよそ3万年前だとされています。中国の周口店上洞人などの古モンゴロイドと呼ばれる新人の種が当時まだつながっていた樺太の方とまだ大陸との距離が近かった北九州のほうから渡ってきたと考えられています。

日本人って?

後期石器時代の浜北人や山下町洞人、港川人もこの古モンゴロイドに属します。縄文時代に日本にいる主な人種も古モンゴロイドということになります。ですが、南アジアから来たという説やその後の文化に北方系の要素も見られるため正確なルーツははっきりしていません。

その後、紀元前500年ごろにシベリアあたりに住んでいた新モンゴロイドという種(ややこしいですが、新モンゴロイドは古モンゴロイドから分かれた種です。)が朝鮮半島あたりから渡ってきます。これが弥生人と呼ばれる種です。

やがて縄文人弥生人の混血が進み、日本人の原型となります。ちなみにこの段階では、南西諸島(沖縄など)やアイヌの人々は混血せず、純粋な縄文人の流れを汲んでいます。

どうやって暮らしてた?

モンゴロイドが日本列島に来た頃は3万年前であり、地質学的には更新世にあたります。このころはまだ氷河期で寒い気候でした。

ちょうどそのころ、中国のほうからナウマンゾウやオオツノジカが、樺太のほうからマンモスやヘラジカが渡ってきました。人々はこのような動物を狩ったり、採集をしたりして食料を集めていました。

このような狩りや採集には砕いて作った打製石器のみを使いました。この時代を旧石器時代といい、約1万年前までを指します。日本には旧石器時代の遺跡として群馬県岩宿遺跡があります。(石器は自然の石との見分けが困難なため本物を探すのが難しいと言われています。)

旧石器時代にはナイフ形石器や尖頭器と呼ばれるとがった石器を木の棒などの先に付けて槍を作り狩りました。後期になると数センチの石のかけらいくつかを棒などに差し込んで作って細石器という道具を使っていました。

動物は1か所に無限にいるわけではないので、食料を求めて人々は移動生活を送っていました。この生活は縄文時代も続きます。家畜を飼ったり、野菜などを育てるのはまだまだ先の話になります。

次回は縄文時代について書いていこうと思います。

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初出掲載:2020年10月2日