和歌の始まりと「万葉集」
はじめに
「万葉集」、「古今和歌集」、百人一首などなど和歌に関するこれらの言葉は誰もが一度は聞いたことがあると思います。それほどまでに和歌は日本に古くから根差し、脈々と受け継がれてきた文化の一つといえます。
今回はそんな日本史には欠かせない要素「和歌」の始まりと最初の国家的和歌集の「万葉集」について触れていきたいと思います。
ところで和歌とは?
和歌というとまず最初に5・7・5・7・7の定型歌が思い浮かぶとと思います。しかし、古代、特に飛鳥時代から奈良時代にかけてはそれ以外の形も存在していました。それは、長歌、片歌、旋頭歌と呼ばれるものです。正式には、この三つに、短歌を加えたものを広く「和歌」と呼びます。しかし、時代が下るにつれて長歌や旋頭歌などは詠まれなくなり、短歌のみが広く詠まれたために「和歌」というと短歌形式の歌を指すようになりました。
和歌の始まり
和歌の始まりは定かではありません。現在最も古いとされてる和歌は、『万葉集』にみられる第三十四代舒明天皇の歌です。『万葉集』の巻頭には第二十一代雄略天皇の歌とされる五七調の歌が記されていますが、時代的な隔たりが大きく、天皇の実作ではなく伝承であろうとされています。
和歌の起源について『古今和歌集』の仮名序で、紀貫之は「天地開闢の時」としています。ここでいう「天地開闢の時」とは、イザナギとイザナミが国生みを行った時を指します。また、仮名序の中で、言い伝えによる和歌の起源は、天上を下照姫の歌、地上を須佐之男命の歌であるとしています。須佐之男命の歌とは『古事記』の中で、クシナダヒメに贈った「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を」という歌です。どちらにせよ、10世紀ごろの人々は和歌に起源を神話に求めていたようです。
この仮名序が書かれて以降、上に挙げたスサノオノミコトの歌が和歌の起源であると信じられ、「八雲立つ」、「八雲」という言葉が和歌の代名詞として使われることもありました。
万葉集の成立
『万葉集』は誰もがご存じ、「令和」の出典ともなった日本最古の歌集です。成立年は定かではありませんが、760年ごろではないかとされています。収録されている歌数は4540首、全部で20巻に収められています。しかし、すべてを一人の人が編纂したわけではなく、数巻ごとに別々の人が編纂したといわれています。『万葉集』は入集している歌の年代で4期に分けられます。では、Ⅰ期から順番にみていきましょう。
Ⅰ期 672年壬申の乱まで
古い時代から壬申の乱までの歌はⅠ期に分類されます。ここでの大きな特徴は、口伝えの伝承や歌謡など、口誦性が強く、まだ記載文学としての和歌ではなかったという点です。先ほど述べた雄略天皇の作とされる歌謡もその一つです。朝廷という集団の中で天皇のために詠んだ歌や、天皇が国家のために詠んだ歌など集団性が強いのも特徴の一つです。その代表例として、国見の歌というのがあります。これは、国家元首が高い山に登り、国を見渡し、国家の安寧を祈るという儀式のようなものを詠んだ歌です。
大和には 群山ありと とり鎧ふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は(舒明天皇『万葉集 巻一』)
上に挙げたのは舒明天皇の国見の歌です。香具山は天から降りてきたともいわれ、当時の人々にとって神聖な山でした。天皇はそこに登って周りを見渡しています。すると、人民の家から煙が立ち上り、海には生命力があふれている様子が見える。麗しい国、大和の国よ。というような様子を詠んでいます。しかし、煙が立ち上る様子と海は実際に見えるものではなく、天皇の統治する国において見えるべきものとして表現されています。
このように、初期の和歌は個人の情を詠むのではなく、儀礼の一環として、言葉を呪術的な意味を持つものとして詠まれました。Ⅰ期の特徴はざっくりとこんな感じです。
Ⅱ期 天武朝から710年平城京遷都まで
つづいて、Ⅱ期は壬申の乱後の天武天皇の時代から、平城京への遷都までの歌です。ここでの特徴は、和歌が記載文学に転換し、個別性を持ち始めたことです。言うなればそれまでの歌は、完成している歌を文字に起こして記録したものであったが、記載文学に転換したのちは文字と歌の制作とが結びつき、文字ありきで歌が作られれるようになりました。
ここで気を付けていただきたいのが、文字がこの段階からはじめて使われるようになったのではないことです。それまで、主に漢文や文章の記録のための文字使用が、和歌の世界に流入してきたのであって、稲荷山古墳出土鉄剣銘にも見られるように、文字の使用は古くから始まっていました。
さて、文字ありきで詠まれるということは、情景から離れて心情を詠むということが可能になります。
ますらをの 現し心も 我はなし 夜昼いとはず 恋ひしわたれば(人麻呂『万葉集 巻十一』)
上に挙げたのは、Ⅱ期の代表歌人柿本人麻呂の歌です。ここで見てわかるのは、恋心を歌っている歌ではありますが、情景描写が存在していません。情景に仮託することなくストレートに心情を言葉にしているとも言えます。このように、文字ありきでの和歌制作は、言葉中心の表現を可能にしました。
Ⅲ期 710年から733年まで
Ⅲ期は、遷都後から山上憶良の没年である733年までです。ここでは、さらに個別性が高まり、漢詩文による影響も大きく受けるようになりました。その為、歌人という存在が独立して現れるようになります。
若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
上に挙げたのはⅢ期の代表歌人、山部赤人の歌です。若の浦に潮が満ちてくると干潟がなくなってしまうので、他の葦辺を目指して鶴が鳴き、飛び渡っていくという歌です。赤人は自然描写を得意としました。ここでは自然を客観的な視点からとらえています。舒明天皇の国見の歌のように自然描写を神性として用いるのではなく、ストレートに自然そのものを詠んでいます。このように、個別性が高まったことで、歌人による歌風が確立されたのも大きな特徴です。
Ⅳ期 733年から759年まで
Ⅳ期は大伴家持の時代です。この頃から和歌が知的で観念的なものとなり、理論を重んずる後の和歌の原型のような形となりました。その背景には、家持自身が唐における役人の教養としての漢詩を学んでいたことも大きいかと思います。
春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ 嬬
我が園の 李の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りたるかも
上に挙げた二首の歌は家持の作で、唐の故事に基づいて詠まれた歌の一つです。
「桃李言わざれども下自ずから溪を成す」という『史記』の言葉を元にしています。桃やスモモは何も言わないけれども花や実を慕って人々が集まり、木の下に自ずと道ができることから、徳望のある人のもとには何も言わずとも自然と人が集まるという意味の言葉です。
上の歌では、桃の花の下、月に照らされる道というのがこの故事にある自ずとできた道であるようです。このように、Ⅳ期には役人の教養として詠む和歌という側面が家持によって生み出されました。
『万葉集』以降
『万葉集』編纂後、しばらくして平安京遷都が行われたころから、文章経国思想が高まってきました。これは、漢詩、漢文を学ぶことで国を安定させることができるという思想で、この影響で嵯峨天皇や、淳和天皇のころには漢詩集が盛んに作られました。
一方で、和歌は衰退し、国家的な公式なものではなくプライベートな存在となりました。その後、仁明天皇のころから天皇の周辺で和歌が詠まれるようになり、そのひ孫の醍醐天皇に時代になると『古今和歌集』が編まれました。
これ以降、和歌が貴族たちの間に浸透していき、和歌文化が栄えていくこととなります。
古今和歌集についてはまたの機会にお話ししたいと思います。