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日本史に関する解説を投稿していきます。

律令国家を目指して1 大化の改新

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そもそも律令とは?

律令とは簡単に言うと「法」のことです。

隋、唐で施行されていたものを手本として、日本も導入を目指しました。「律」というのは課税や兵役などの国民への命令、一般行政についての規定で、「令」というのは罪を犯した人への罰則についての規定です。

中国では、古代の日本はこの律令を国家の基本法として政治を行いました。

また、少し時代が下ると、変わりゆく時代に律令も順応させていかなければならず、律令に追加する形で「格式」というものが制定されました。これについてはまたあとでご説明します。

ともあれ、古代の日本ではこの律令を最大の目標として政策が行われたわけです。

今回と次回にわたって日本が律令国家になっていく初期の段階について解説していこうと思います。

大化の改新

大化の改新とは蘇我入鹿の暗殺事件のみを指すのではなく、蘇我入鹿暗殺に始まる大規模な政治改革を指します。

よって、その段階は蘇我入鹿暗殺のステップⅠと蘇我氏亡き後の政権での政治改革のステップⅡに分けられます。

これをまとめて、645年に制定された日本最初の元号である「大化」にちなんで、「大化の改新」といいます。

蘇我氏の強大化

7世紀ごろの日本では、政権の中心には蘇我氏の存在があり、蘇我氏は自らの一族への権力の集中化を図っていました。

そして、643年には蘇我入鹿聖徳太子の息子である山背大兄王を滅ぼし、更なる権力の一点集中化を図りました。

山背大兄王皇位継承候補でもあり、もしも皇位に就いた場合に聖徳太子の家が権力を持つのを恐れたためであると言われています。

ちなみに山背大兄王は入鹿のいとこにあたります。

蘇我入鹿暗殺計画

このようなことがあり、中大兄皇子は、蘇我氏の権力が強まることに危機感を感じていました。

時を同じくして、祭祀をつかさどっていた豪族である中臣鎌足蘇我氏の力が天皇家をしのぎつつあることに危機感を感じ、蘇我氏を滅ぼすことを考えていました。

そんな中、法興寺で開催されていた蹴鞠の会で二人は出会うことになります。

蹴鞠中に中大兄皇子が飛ばしてしまった靴を、そこに居合わせた中臣鎌足が拾ってあげたことで仲良くなり、意気投合し、密談を重ね、蘇我氏を討つことを決めたと言われています。(少女漫画のような展開ですが…。)

そして来たる645年、その時は訪れます。

日取りは、蘇我氏、皇族が一堂に会する、三韓新羅百済高句麗)からの使者が朝廷にやってくる日を狙い、蘇我入鹿を暗殺しました。これを645年の干支にちなんで「乙巳の変」と言います。

乙巳の変後の朝廷人事

その後、いわば蘇我氏の傀儡であった女帝の皇極天皇は譲位し、軽皇子が即位して孝徳天皇になりました。

それに伴って、都を飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)から難波宮へ移しました。

ちなみに乙巳の変の現場はこの飛鳥板蓋宮の本殿であったと言われています。

前にも書いたように、飛鳥は蘇我氏の本拠地でありました。

つまり、蘇我氏の本拠地であった飛鳥から移動することで政権をやり直すという意味があったと考えられます。

そして、乙巳の変を起こした中大兄皇子は皇太子となりました。

暗殺を手伝った蘇我倉山田石川麻呂は右大臣に、同じく変の中心首謀者であった中臣鎌足は内臣に、孝徳天皇の后の父である阿部内麻呂は左大臣に抜擢され大化の改新を推進しました。

また、遣隋使とともに隋に渡った経験のあった旻と高向玄理は中国風の法を整備するための政治顧問として国博士に任命されました。

大化改新の詔

646年1月、今後進める政治の方針が明文化さされ示されました。

それを「大化改新の詔」と言います。

主な内容としては、田荘、部曲の廃止、新しい行政区画の制定、戸籍、計帳、班田収授法の作成、新しい統一税制の制定などがあります。

田荘、部曲の廃止は、豪族の土地と人民の私有化を禁ずることで公地公民制を達成し、すべての土地と人民を公、つまり朝廷のものととすることを目指しました。

新行政区画は、現在の都道府県のようなもので、当時は地方に「評(こおり)」と呼ばれる組織が置かれました。

戸籍、計帳というのは班田収授と課税のための人民の把握を目的として作られました。

こうした背景には、朝鮮半島や中国での戦争があり、日本は天皇を中心とする中央集権国家を作ることを迫られたからであったと言えます。

大化の改新のその後

このようにして大胆な政治改革を成し遂げた中大兄皇子でしたが、変後は蘇我氏系の人々を次々に滅ぼし、天皇家への中央集権化を図りました。

まずは皇位継承候補であった古人大兄王を滅ぼしました。

次に、変の功労者でもあり右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂をも滅ぼしてしまいました。

そして、孝徳天皇の皇子の有間皇子を滅ぼしてしまいました。

(いつかの日の蘇我入鹿のような行いですね。)

天皇家への中央集権化を達成し、権力を強化するためには危険分子である蘇我氏系の人々や政敵は滅ぼさざるを得なかったようです。

今回は短めですが、限がいいのでこの辺にしておきたいと思います。次回は斉明天皇の即位から持統天皇の治世までを解説したいと思います。