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日本史に関する解説を投稿していきます。

氏姓制度で基礎を固めたヤマト政権と反乱

ところでヤマト政権って?

教科書では何の脈絡もなくヤマト政権というワードが出てきますがもう一度定義と意味を確認したいと思います。(このサイトでもいつかの記事で使っています...。)

ざっくりいうと、ヤマト政権とは「倭国の長である大王を中心として有力な豪族たちと作り上げた政治基盤」です。のちの朝廷の卵というイメージで間違えはないです。

大王=天皇であり、呼び方の違いであると理解するとわかりやすいです。

しかし、一般的には万世一系天皇家とされていますが、あとで出てくる継体天皇の代で家系が変わったという説もあり、仁徳天皇継体天皇以降の天皇の血がつながっていない可能性も無きにしも非ずと言われています。

まとめると、バラバラだった国家の始まりに最初のリーダーとなったのが大王であり、それに従ったのが有力豪族で、この日本を治めることになったグループをヤマト政権と呼ぶ、ということになります。

名称のヤマトというのは、広く近畿地方を指し、政権の中枢が河内あたりに置かれたことに由来しますが、カタカナでヤマトと表記する場合は日本全体を指すそうです。

強くなるヤマト政権

古墳時代の中期からヤマト政権は統制力を増していきました。

その例として、中期に古墳が巨大化したことや、終末期に前方後円墳の造営がきっぱり終わってしまうこと、様々な制度が出てきたことがあります。

前の記事でも触れたように、豪族たちは前方後円墳を作らなくなり、円墳や方墳を作るようになりました。有力な農民も群集墳を作ったり、大王家は八角墳という大王家のみが作れる形の古墳を作りました。

さらに、もう少し立つと古墳の造営自体がストップし古墳時代は終わりを告げます。このように、人によって作れる古墳と作れない古墳ができたことは政権の統制力が強くなったことを示します。

ヤマト政権の看板制度「氏姓制度

ヤマト政権の代表的な制度に氏姓制度というものがあります。これは豪族たちや有力な首長たち、渡来人系の技術者などを大王を頂点とする一つの集団として編成するための制度でとても複雑な制度になっています。

(うじ)

まず、氏の話です。すべての豪族は血縁や政治的なつながりを元に「氏(うじ)」に編成されました。「一族」という感じです。蘇我氏物部氏などの氏です。

この氏のリーダーを氏上(うじのかみ)と言い、メンバーを氏人と言います。

氏の名前は地名で付けられるものと職掌(仕事)で付けられるものがあります。

例を挙げると、蘇我氏、平郡氏、葛城市は地名由来で、物部氏、大友氏,忌部氏(いんべし)、中臣氏などは職掌由来です。

また、氏ごとに政権の職掌が与えられそれぞれの一族が担当しました。

上に挙げた蘇我氏は財政を担当し、物部氏は軍事を、忌部氏は祭祀を担当しました。

ここまでは理解できたでしょうか? 続いて姓(かばね)の話に移ります。

(かばね)

姓は氏ごとに与えられた称号で、位のようなものだととらえてください。

中央の有力豪族には連(むらじ)臣(おみ)の姓が与えられ、大連(おおむらじ)大臣(おおおみ)という地位に列せられました。大臣は大王家と並ぶほどの豪族が、大連は特定の職掌で政権に仕える有力豪族が列せられました。

先ほどの例では、蘇我氏、平郡氏、葛城氏は大臣を、物部氏、大友氏は大連を与えられました。物部氏、大友氏は軍事という特定の職掌で仕えていたので、大連なわけです。

この姓はミドルネーム的に名乗られ、蘇我稲目は正式には蘇我大臣稲目であり、物部守屋は物部大連守屋となります。

余談ですが、この名残かあとの時代では朝廷からもらうくらいに応じた役職がミドルネーム的に名乗られます。

織田信長も若いころに織田上総守信長と名乗り(自称ですが)、徳川家康も徳川三河守家康と名乗りました。私もペンネームを伊勢守と名乗っています。

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つづいて、中央と地方の普通の豪族です。彼らには臣、連、君、直(あたい)、造(みやつこ)首(おびと)などのバリエーション豊かな姓が与えられました。

地位は連、造は伴造(とものみやつこ)に、臣、君、直は国造(くにのみやつこ)に列せられました。国造は地方豪族から選ばれ、地方の支配権を掌握しました。

ここまでが氏姓制度の中での豪族の話でした。続いていっぱいいる民たちの話になります。

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部民(べみん)

一般庶民の民たちは部民(べみん)という集団に編成されました。

大王に直属している民は、名代(なしろ)子代(こしろ)に編成され、様々な形で大王に仕えました。

また、ヤマト政権の直轄地である屯倉(みやけ)で耕作をする民を田部(たべ)に編成しました。

豪族も私有地である田荘(たどころ)に私有民を持っており、彼らは部曲(かきべ)に編成されてそれぞれの豪族に仕えました。

また氏のメンバーの家に仕える奴隷的な民も存在しており、奴(やつこ)と呼ばれました。

いろいろな技術を持った人たちは前の記事でも紹介した、錦織部、韓鍛治部、史部などの品部(しなべ)に編成されました。

品部は伴造が統率し、集団として政権に所属しました。

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反乱、磐井の乱の発生

ヤマト政権が統治の基礎を固め、力を増していく中、527年に反乱が発生しました。

首謀者は筑紫国造磐井です。彼は伽耶国に向かう朝廷の軍と戦い、進軍を妨げました。

当時朝鮮半島では力を増した新羅が、伽耶諸国を攻めていました。そんな中、伽耶諸国と国交のあった日本は新羅に奪われた南加羅を復興させるために援軍を送りました。

磐井は新羅と結んでいたためこの援軍の朝廷軍と戦ったのです。

この反乱は約2年もの間続いたと言われ、大苦戦が強いられたようです。最終的に朝廷が物部麁鹿火(もののべのあらかひ)という人を派遣し、この反乱は鎮圧されました。

その後、磐井の治めていた土地は屯倉に組み込まれました。反乱の芽を摘むために直轄地にしたのです。

ちなみに、この磐井の墓が石人、石馬で有名な岩戸山古墳であるとされています。

このようにして古墳時代はヤマト政権の強大化という形で幕を閉じ、次の時代を担う重要な政権となりました。

それが朝廷であり、そのリーダーが現在も続く天皇家でもあるわけです。次回からは朝廷という形が本格的に完成する飛鳥時代に突入します。