ざっくり弥生時代
弥生時代っていつから?
弥生時代はおよそ紀元前4世紀から紀元後3世紀までを指します。弥生という名称は縄文土器とは違う薄型で褐色の土器が東京の本郷弥生町の向ヶ岡貝塚で見つかったことから、この薄手の土器を主として使っていた時期を弥生時代と呼ぶようになりました。
どんな時代?
弥生時代は、平和でみんな仲良くの縄文時代とは変わって、武器を使った争いが起きるようになりました。
定住したことにより本格的な農業ができるようになり、多く作って、貯蔵するということをするようになったからです。
さらに、まとまった数の多くの人を基礎として都市国家という形で国ができ、そこに卑弥呼のようなリーダー的存在が長として民をたばねるようになりました。
つまり、人が財産を持つようになり、それを力ずくで奪おうとする人が国単位でうまれたのです。
(領土を奪う戦国時代の戦や様々な利害関係の絡んだ世界大戦の小さい版みたいなものです。)
そのため、数々の集落は周りを堀で囲み敵の侵入に備えました。この集落を環濠集落といいます。
他にも、もしもの時のために山などの小高い場所に高地性集落とよばれる集落も作られました。敵が来た時に逃げるためのものだと考えられています。
有名な佐賀県の吉野ケ里遺跡では、環濠のほかに戦死したとみられ、武器による傷のある人骨も見つかっています。一説には北九州にいくつかの小国があったため、国同士の争いによるものだと言われています。
弥生時代の特徴
弥生土器
まず、大きな特徴として土器がアップグレードされ、薄くて丈夫な土器が作れるようになりました。(こころなしか色合いもおしゃれになりました。褐色です。赤です。酸化銅の色です。)
高坏という足のある食器や甕というご飯を炊く土器を主として作りました。
さらに、後で詳しく書きますが、埋葬用の棺桶も土器でつくりました。(人が入る大きさを作る技術がすごいですね。)
まだ研究段階なので何とも言えませんが、弥生時代後期になると漢字のような文字入りの土器も少数見つかっています。
水稲耕作
次に稲作です。稲の伝来ルートには二つの説があります。一つは中国の長江の中下流域からから来た説、もう一つは中国の西、雲南、アッサムあたりから来た説です。現在は前者が最も有力とされています。
そして日本に来たのは縄文時代の終わりごろといわれています。そのころの遺跡としては北九州の菜畑遺跡や板付遺跡が有名です。ここでは稲を栽培しつつ、縄文土器も使っていたことがわかっています。
注意ですが、この遺跡は分類上は弥生時代早期の遺跡になります。(「明日から弥生時代です!」みたいにきっぱり変わったわけではないのでここはちょうど時代の過渡期ですね。)
初めは低湿地のような水の多い湿田を使った稲作を行っていました。
ですがこの方法ではあまり多く高品質な稲を作れないので中期以降には灌漑を行った乾田で稲作できるようになりました。
こうして作られた稲は成熟した穂だけ刈り取って収穫しました。
純粋に一種類の稲だけを植えていたわけではないので成育にバラツキがあったためです。刈り取りには片手大の石包丁を使いました。
そんなこんなでやっとこさ収穫できた稲は臼と杵を使って脱穀されて、湿気を防ぐ高床倉庫で保存されました。この稲作により、時代は採集から生産へ、遊牧から定住に大きく変化しました。生活スタイルの変化が大きな発展をもたらしたのです。
今の日本人がお米を食べれるのは弥生人のおかげといっても過言ではないです。
金属器
三つ目は金属器。金属器と言ってもアルミやステンレスではなく、ここでは青銅器と鉄器を指します。
国ができるとリーダーが生まれます。この頃のリーダーは呪術によって権威を示しました。神様の声が聞こえたり、雨を降らせたりしたのです。そのような宗教的なイベントを祭祀と言い、様々な道具を使いました。
それが銅鐸や銅鏡をはじめとする青銅器です。青銅は銅とスズの合金で時間が経つと緑色に錆びるのが特徴です。日本で発掘された青銅器は元は実用的な道具でしたが、だんだんお祭り用に大きくなり、オブジェ的な存在になりました。
道具にはそれぞれ使われていた地域が微妙に異なっており、北九州では銅戈、山陰地方では銅剣、近畿地方では銅鐸のように別々の地域でまとまって出土しています。
銅剣は島根の荒神谷遺跡、銅鐸は加茂岩倉遺跡で大量に見つかっています。
農業に使われた実用的な金属器は鉄器です。鉄は当初とても貴重なものでした。なので初めの頃は木の道具の刃先だけに薄く板状にしたものを使っていました。
後期になると稲の収穫は石包丁ではなく鉄のカマで、しかも稲の根っこの方から刈るようになりました。だんだんと稲の種類も一本化されていったのです。新しい道具の出現は暮らしを豊かにし、文明を大きく前進させました。
お墓とか諸々
生活にゆとりが出てくると装飾する余裕が生まれ、お洒落になっていきます。
それまでバキバキに曲げて埋めるだけだった埋葬が、土器製の甕棺に入れて埋葬したり(このころから遺体は伸ばして埋葬されるようになりました。)、墳丘墓や方形周溝墓というミニミニ古墳みたいなのに埋葬したり、支石墓と言う大きい石を置いたお墓など多様化していきました。
そんな中でリーダークラスのお墓が徐々に大きくなり古墳のような形式が出来上がったと考えられています。
岡山や山陰地方には楯築墳丘墓や四隅突出型墳丘墓など凝った形のお墓もできました。
ですが弥生時代のお墓のスタンダードな形は正方形の方形周溝墓でした。古墳時代になると超有名なあの形が多くなっていきます。