(┘゜∀゜)┘日本史わっしょい└(゜∀゜└)

日本史に関する解説を投稿していきます。

古墳時代の古墳

f:id:ch0c0l4:20201002204218j:plain

古墳時代って?

弥生時代が終わると、古墳時代に突入します。その名の通り古墳づくり全盛期の時代です。西暦にすると3世紀中期から7世紀初めごろまでです。

4、5、6とざっくり1世紀づつを前期、中期、後期に分けると変遷が分かりやすいです。7世紀初めは飛鳥文化との過渡期にあたります。そのころは古墳づくりは廃れ、お寺ができるようになりました。

他国との戦いが本格化したのも古墳時代からで、鉄の確保が大きな問題となっていたようです。

古墳の特徴

先に話した三つの時期で、古墳は大きく異なります。ここではその特徴を前期、中期、後期、に分けて解説していこうと思います。

前期の特徴

古墳時代前期は区分で言うと3世紀中ごろから4世紀後半にあたり、古墳ができ始めてきたころです。弥生時代後期には古墳の原型のような墳丘墓という小さいお墓が作られました。「ざっくり弥生時代」の記事で書いた楯築墳丘墓や四隅突出型墳丘墓、方形周溝墓がそれにあたります。

nihonshi-wasshoi.hatenablog.com

さて、古墳時代に入るとあの前方後円墳が作られ始めます。このころのものとしては、奈良の纏向遺跡箸墓古墳が有名で、この頃としては最大の規模を持ちます。一説には卑弥呼の墓であると言われています。

前期の特徴の一つとしては棺を納める部屋が竪穴式石室や粘土槨であることです。

竪穴式石室とは上から穴を掘って棺を入れる部屋で、イメージとしてはアメリカのお墓みたいに一回埋めたら掘り返さないと、出せない感じです。粘土槨とはその名の通り粘土で棺を覆うことで、このタイプの古墳には石室は作られませんでした。

副葬品は銅鏡や玉の腕輪、勾玉、玉杖、鉄の武器、農具などでした。これらは棺と一緒に石室に納められました。

このような副葬品を見ることで、どんな人が葬られたのかを推測することができます。例えば、釣りが好きだったおじいちゃんの棺桶に釣り竿やルアーを入れてあげるみたいな感じです。

ここでは銅鏡や腕輪なので、おしゃれな人だとも考えられますが、当時銅製の道具は呪術に使われたので、ここには司祭者のような人が埋まっていたと推測されます。このように、前期に古墳に埋葬されたのは主に司祭者であったと考えられています。

ここで副葬された銅鏡は三角縁神獣鏡です。この起源については中国から来たとする舶載鏡説と渡ってきた中国の工人が日本で作ったとする仿製鏡説があります。

前期はもう立派な古墳時代なので、もちろん埴輪も飾られました。この頃は円筒埴輪といって、ただの筒状の土器で、おなじみの可愛い埴輪ではありませんでした。

その他にも、家の形の形象埴輪や、盾や傘、矢を入れる靭の形の器財埴輪も飾られました。埴輪は石室内ではなく古墳の上に並べて飾られました。

古墳時代中期

時代も下り、古墳時代も中期に入りました。西暦で言うとおよそ4世紀後半から5世紀ごろです。この頃になると前方後円墳が巨大化します。

有名なのは2019年に世界遺産に登録された大阪の大仙古墳やその近くにある誉田御廟山古墳です。大仙古墳は仁徳天皇陵と言われていますが、信憑性は低いです。そもそも大仙古墳の造営時期と、仁徳天皇の在位期間に大幅なずれがあるようです。

中期の石室は前期と同じく竪穴式石室でした。しかし、5世紀ごろになると朝鮮から九州に横穴式石室というタイプの石室が伝わります。これは画期的な石室で、一度棺を納めても、後から石室に入れるので追葬といって、あとから別の棺を納めることも可能になりました。

横穴式石室は後期になると広く普及しますが、この段階では九州などの一部の地域だけでした。

副葬品も大きく変わりました。銅のおまじない用具から鉄剣、鉄の弓矢、鉄の甲冑、鉄の馬鎧などの鉄の武器に変わりました。前述した理論でいくと、中期に古墳へ埋葬されたのは武人のような軍事力を持った人であったと推測されます。

これに関して一説には、大陸の騎馬民族に日本が征服されたため、その民族の特徴である武人的要素が出てきたといわれています。

この頃の古墳には動物や人間をかたどった形象埴輪が並べられるようになりました。おなじみのあの埴輪です。

古墳時代後期

とうとう古墳もクライマックス、古墳時代後期に入りました。西暦では6世紀から7世紀ごろです。

この頃には、近畿地方以外で大きな前方後円墳が見られなくなりました。これは、近畿地方(中央)の勢力に地方の豪族たちが服属する体制が出来上がったためであると考えられています。つまり、中央の権力者だけが大きな前方後円墳を作れるようになったのです。

さらに、前方後円墳に加えて各地で小さい古墳の集合体である群集墳が作られました。他にも石室に絵を描いた装飾古墳も作られ、多様な古墳が現れました。

群集墳では和歌山の岩橋千塚古墳(岩橋と書いて、いわせと読みます。)や吉見百穴が有名です。装飾古墳では奈良県明日香村の高松塚古墳キトラ古墳が有名です。

斑鳩町藤ノ木古墳は副葬品が豪華すぎることで有名です。この副葬品には像の装飾などの大陸文化の一端が見られ、飛鳥文化の特徴がみられます。

この頃になると全国的に横穴式石室が広まりました。すると、追葬ができることから家族の棺を納めた家族墓も出てきました。

副葬品は武具や馬具など軍事的なものもあるものの、飲食用の土器などの生活用品が中心的に納められるようになり古墳に生活感が出てきました。

このことや群集墳が増えたことから、首長クラスの人だけでなく有力農民などの少し下の身分の人も古墳を作るようになったと推測されます。

この頃は動物や人、家や船などの形象埴輪が盛んに飾られました。しかし、九州北部などでは埴輪とともに石人、石馬という石でできた人形を飾るようになりました。福岡県の岩戸山古墳が有名です。ここには筑紫国造磐井が埋葬されています。

古墳時代終末期

古墳時代後期と飛鳥時代が被る7世紀の期間を終末期と呼ぶことがあります。

先に挙げたように藤ノ木古墳には西アジア風の冠や韓国で出土したものにそっくりな靴など大陸から渡ってきたであろう文化が反映されています。また、高松塚古墳の壁画は白鳳文化に分類され、四神や星宿図という天文図も描かれています。

このような高度な装飾がなされた背景には大陸文化の影響があったと考えられます。日本独自の文化、古墳と大陸からのハイレベルな技術が融合した異色の古墳が作られたのが古墳時代終末期でした。

さらに、古墳時代後期から近畿の勢力を中心とするヤマト政権が体制を整え始め、その頂点にあるオオキミ(大王)の一族とその他もろもろの豪族たちとの明確な違いを示すために、大王一族の古墳だけ八角形に作るようになりました。これを八角墳といいます。

こうして、現代に至るまで続く天皇家を頂点とする国家の基盤、ヤマト政権が着々と体制と整えていきました。この後、渡来人の技術者を政権に取り込んだり、直轄地を設けたりしてさらに政権を確固たるものにしていきました。