ヤマト政権から飛鳥の朝廷へ
朝鮮半島と隋の国
前回の記事で書いたように朝鮮半島では新羅の力が増して、周辺の百済、伽耶諸国に支配を広げていきました。この背景には北方に位置している高句麗が南下し、新羅が圧迫されていたことがあげられます。
当時、百済、新羅は独立した一国であるのに対して、伽耶諸国は依然として小国の連合であったと言われています。前期は金官国(金海)を中心とし、後期は大伽耶国(高霊)を中心としていたようです。
中国は当時南北朝時代で、南北に国が分かれていました。その後589年に楊堅という人が統一し、隋が誕生しました。隋が力を持ち、高句麗などに進出するようになると、上に書いたように連鎖的に百済や新羅なども圧迫されるようになりました。
大友氏と物部氏と蘇我氏
大友氏、現る
6世紀初めごろから、大友氏、物部氏、蘇我氏の3つの氏が政権の中枢におり、対立もありました。時系列を追ってみていきたいと思います。
まず、507年に大伴金村という人が男大迹尊という人を越前から連れてきて、天皇として擁立しました。それが継体天皇です。
継体天皇の前の武烈天皇という人に後継ぎがいなかったために、天皇家と血縁関係がある人を探し出し、少し遠くの越前から連れてきたと言われています。
これも諸説ありますが、武烈天皇の素行に関する記述に、妊婦の腹を切ったり、爪をはがした人にイモを掘らせたりと邪知暴虐な行いがあるようです。これについて史学的に王朝交代時において前王朝は悪く書かれることが多いことから、一説には継体天皇から王朝が交代したともいわれています。
その後、512年に金村は百済に伽耶諸国の支配を認めました。このことがのちに責められ大友氏は失脚することになります。以降大友氏は長期にわたって没落気味になってしまいました。
そして527年に磐井の乱がおこりました。
仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の対立
538年には百済の聖明王が欽明天皇に仏像や仏典を贈りました。これが仏教の公伝と言われています。
新しい宗教が来ると、信仰するか否かで対立が起こりました。その中心となったのが崇仏派(仏教推進派)の蘇我氏と、廃仏派(仏教反対派)の物部氏でした。
お互いの主張はこうです。
まず蘇我氏は、先進的な海外の文化を積極的に取り入れて、世界に遅れないようにしようということで仏教を推進しました。
物部氏の方は、日本には古来より八百万の神様がいるという伝統的な信仰があり、それを守り続けるべきだということで仏教の受容に反対しました。
540年ごろは蘇我氏の氏上の蘇我稲目と物部氏の氏上の物部尾輿が対立し、最終的に天皇と結びつきの大きかった稲目の勝利に終わりました。
その後、二人の息子である蘇我馬子と物部守屋が再び大きく対立し、587年に馬子が物部氏を滅ぼし、勝利したことでこの対立は終結しました。
力を伸ばす蘇我氏
物部氏が滅んだことで一強となった蘇我氏は力を伸ばしていきました。
592年に欽明天皇の息子で当時即位していた崇峻天皇が暗殺されてしまいました。
犯人は蘇我馬子です。当時政権の中心にいて実権を握っていた蘇我氏に対する崇峻天皇のある発言がきっかけで、馬子は天皇に嫌われており殺されるかもしれないと思うようになり配下の者に暗殺を命じたといわれています。
これ以降、蘇我氏はさらに権力を強めていきました。
推古天皇の時代
その後、崇峻天皇の2つ前の天皇の敏達天皇の后で、崇峻天皇の姉である推古天皇が即位しました。彼女は日本初の女帝です。古代は女帝が即位することが多々ありました。
彼女自身、先進的なものを取り入れることに抵抗はなく、蘇我氏のマインドと相性が良かったようです。そして、甥の厩戸王(聖徳太子)たちの協力を得て政治を行っていきました。
聖徳太子の二大法令
603年には超有名なあの冠位十二階が定められました。
これは、それまで氏単位で職掌が分けられ、氏のまとまりで構成されていた中央組織を再編成するために、氏に関係なく個人の才能や功績を元に冠位を与えようというものでした。
また、604年には憲法十七条が定められました。
これは憲法といっても、大日本帝国憲法や日本国憲法のような法律ではなく、官僚に対して役人としての心構えを説くものでした。
その一には「和を以て貴しとなし、忤ふること無きを宗とせよ。」、「仲の良いことを最上のこととし、道理に逆らうことしないのを信条とせよ」と説いたり、その二には「篤く三宝を敬え」とあり、「仏、仏教の教え、仏教の僧を敬いなさい」と説いています。
十七条全部は紹介できないですが、一度全文を読むことをお勧めします。
遣隋使の派遣
しばらく途絶えていた中国との外交が遣隋使によって再開されました。
隋の歴史書「隋書」によると第1回の遣隋使派遣は、600年であるとされています。しかしこの派遣は日本の歴史書には書いてないことから、失敗に終わり成果のなかった派遣だったといわれています。
日本の歴史書に書いてある最初の派遣は607年で小野妹子が渡った時です。
遣隋使の行った中国との外交は今までとは大きく異なりました。いままでは冊封を受けて国として認められるために貢物をする冊封体制下での朝貢を行っていました。
ところが、遣隋使が行ったのは対等な関係で国交を結ぶものでした。当時の隋の皇帝煬帝はこれに対して無礼であると怒ったようです。
しかし、高句麗との戦いに苦戦を強いられていた最中であったため仕方なくという感じで受け入れられたようです。
翌年608年に隋の返答使である裴世清とともに小野妹子は帰国しました。その他にも遣隋使に同行した留学生の高向玄理、留学僧の南淵請安、旻などの人たちは大化の改新後の政治で大きな役割を果たしました。
ヤマト政権は有力な豪族たちの支えのもと、海外の文化を取り入れ国際的になっていきました。
今後も中国をお手本に法律を定めていくことになります。そのうえで重要だったのが留学経験のあるグローバルな人材でした。今も昔も求められる人材に変わりはないようです。