(┘゜∀゜)┘日本史わっしょい└(゜∀゜└)

日本史に関する解説を投稿していきます。

小さい国々と邪馬台国と卑弥呼と中国

f:id:ch0c0l4:20201002203911j:plain

中国から見た日本

弥生時代の国々の状況は縄文時代弥生時代の生活とは違って文字で記された資料を調べて研究されます。しかし、当時の日本には文字を記す技術はないので、交流のあった中国の人が残してくれた歴史書にかかれています。のちに出てくる○○書 △△志(伝)は○○王朝が書いた歴史書の△△というパートだと理解してください。

1~2世紀ごろの日本

中国は当時前漢王朝の時代でした。その当時書かれた前漢の歴史書漢書」地理志に日本のことが倭国として書かれています。

それによると倭は約100の国に分かれており、朝鮮半島にある楽浪郡という漢の直轄地に定期的に使者を送っていたようです。(楽浪郡は現代のピョンヤン付近の当たります。冷麺が有名なところです。)

その後の後漢王朝の「後漢書東夷伝には、57年に奴国の王が後漢の都である洛陽に使者を送り光武帝から金印をもらったと書かれています。この金印は江戸時代に福岡県の志賀島で農民が見つけました。金印には漢委奴国王と記されており、光武帝から奴国王が冊封※1をうけたことを示しています。また、107年には倭国王帥升という別の王が生口(奴隷)160人を後漢の安帝に献上したとこも東夷伝に記されています。

※1 冊封  当時の世界の中心は中国でした。中国の皇帝が一番偉いことになっていました。これを中華思想といいます。そこで、小国の自称王様たちは一番偉い皇帝に貢ぎ物をして一国の王様として正式に認めてもらおうとしました。こうして認めてもらうことをを冊封を受けると言いました。そして、この制度を冊封制度といいます。日本史では外交の上で非常に重要な制度なので覚えておくといいと思います。

3世紀ごろの日本

中国では3世紀初頭、220年に後漢が滅び、時代は三国時代に突入しました。三国志の時代です。この三国志というのは歴史書の名前で、晋の国の陳寿という人が記しました。魏志倭人伝三国志の1パートです。

この魏志倭人伝によると2世紀の終わりごろの倭国では大きな戦乱があったと記されています。これを倭国大乱といいます。この戦乱のさなか、諸国は邪馬台国卑弥呼を女王にすることにしました。すると、戦乱は収まり、邪馬台国を中心をとする約30国の連合が成立しました。しかし、倭国中の狗奴国などは反抗しており、必ずしも一枚岩の連合ではありませんでした。

その後、239年に卑弥呼は魏の皇帝に朝貢し「親魏倭王」の称号と金印(これは出土していません。)、銅鏡をたくさんもらいました。この親魏〇〇王の称号は西域の大月氏の国と同じ位であり、大国と同じレベルに列せられていたと考えられています。

連合を安定させるためにも中国の皇帝から冊封を受けることが重要であり、そのために卑弥呼は使者を送ったと考えられています。つまり、力のある人に認められることで、連合の長である正当性を確立することが必要だったのです。

邪馬台国について

邪馬台国の場所

現段階ではその場所は特定に至っていません。しかし、北九州に所在し、比較的小規模の連合であったとする九州説と、畿内に所在し近畿から九州にかけて比較的な大規模な連合を組んでいたとする近畿説の2説が有力とされています。 魏志倭人伝に倭への経路は書いてあるのですが、それに従うと南の海のど真ん中に出てしまうのであまり参考になりません。出土品から推定するしかないのです。

卑弥呼って?

卑弥呼という名前は魏志倭人伝に登場し、そこでは「鬼道を事とし能く衆を惑はす」と紹介されています。鬼道というのは呪術のことで、神様の声を聴いたり、雨を降らせたりしたようです。ほかにも、「年已に長大なるも夫婿なし。男弟あり、佐けて国を治む」とあり、結婚はしておらず、男性の弟が補佐していたようです。そのため子供はおらず、卑弥呼がなくなった後はリーダー不在で国内は混乱してしまいました。

国の様子

邪馬台国には身分の差が存在していました。上を大人、下を下戸といいます。この差はかなり大きなもので、道端で下戸が大人にばったり出会った場合、下戸は尻込みして草むらに入りうずくまり、土下座のようにして敬意を表したといいます。

その他制度も整い始め、税制や刑罰などもあったり、伊都国という国には監察のため一大率という役職が置かれたりしました。また市も開かれ、市に大倭という役職が監察役として置かれました。

国の終焉

邪馬台国卑弥呼の死とともに大きな岐路に立たされました。卑弥呼は247年に亡くなったとみられています。

魏志倭人伝には「卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人。」とあり、大きな墳丘が作られ、100人を超える人が殉死したようです。(畿内説を取る場合、この塚は箸墓古墳であるとされています。)

その後、臨時のリーダーとして男性の王を擁立しましたが、混乱はおさまりませんでした。そこで、卑弥呼と同族の壱与という女性を擁立し国はとりあえず安定しました。

こうして邪馬台国は266年に再び中国に使者を送りましたが、そこからは150年間にわたり歴史書には一切倭国についての記録がなされていません。

この空白の150年に倭国がどのような状況であったかは謎に包まれています。

人々が国を作って、制度ができると良くも悪くも身分が発生しました。今後の日本の基盤となる原型が邪馬台国といったところでしょうか。この形態を軸に日本は徐々に発展していきます。